郷に入る

アイヌに導かれた人々がマイナス30度の土地に暮らし続ける理由|自治×北海道

人間が人間であるための“自治”ってなんだ?!

北海道には、まっすぐな道路がたくさん通っている。

わたしが暮らす北海道下川町も、町は碁盤の目のように区画整理されている。そのため、市街地を中心にまっすぐな道が多い。

北海道下川町
筆者が下川町に来て一週間経ったころに撮った町内

東京や地元の静岡で何気なく通っていた道路とは、少し違う。

空とくっつきそうなほど、どこまでものびるその道は、初めて見たとき人の気配がした。道路を作る、かつてそこで暮らしていた人の影が見えた、気がしたのだ。

荒野に転がる大きな石や植物を取り除き、何年もかけて整備して、時には山、また時には海を目指し、切り開かれた太い道。

「道路を作る人々は、その先に何を見ていたのだろうか」と、思いを馳せずにはいられないほど、まっすぐだ。

北海道下川町

北海道下川町

北海道下川町に来るまで、わたしは「自治」というキーワードには興味すらわかなかった。自治会や自治体の仕組みを、知ろうともしなかった。

けれど、北海道に来て「誰かが作ったであろうまっすぐな道」で歩を進め、利便性からかけ離れた下川町という立地で生活する人々の中にいて初めて「自治」というキーワードについて、考えるようになった。

便利で快適なところに住もうと思えばいくらでも選択できるはずなのに、あえてこの地に住み続ける人々がいるのは、なぜだろう。

駅が近いとか家賃が安いとか、合理的な理由だけで、人の暮らしは築かれない。それらを凌駕するものは、なんだ?

この答えが、自分たちの生活を自分たちで築き、生きてゆくチカラ──つまり「自治」のありようを、教えてくれるのではと、思ったのだった。

アイヌに導かれ見つけた肥沃な土地

そもそも、下川町としての“自治”の歴史は、いつ始まったのか。

約110年前まで、さかのぼってみた。

北海道下川町

下川町は、岐阜県から来た古屋達造(以下、達造)率いる入植団によって開拓された。公式な情報では、1901年(明治34年)の出来事だ。

けれど1897年(明治30年)、達造は下川町に来る前に、友人一人と妻を連れて現在の愛別町(下川町から車で1時間くらいの町)に移り住んでいる。

その際、旭川周辺の近文(ちかぶみ)という地域にあるアイヌ部落をたびたび訪れていた。そこの酋長(しゅうちょう)は、流暢な日本語が話せたことから、達造は開拓する地域を探す相談をしていたという。

立木のクルミ、アカダモ、ドロ、ヤナギ、カツラ等の太い木のある所は土地が肥えておりウバユリやカタクリが沢山あるので、アイヌはウバユリが沢山採れ川でサケマスの沢山獲れる所に棲み着いている。

旭川近くにはもう余地は無いが、テシオのナヨロブトの方にはシャモ(和人)は居ないので、ナヨロブトのアイヌに連絡を取ってやるから、来春の堅雪で歩き易い時に行って詳しく調べると良いと教えてくれた。(『新説下川開拓』p3,4より引用)

近文の酋長から教えてもらった土地が、ナヨロブト──現在の下川町の上名寄地区近辺にあたる。

ナヨロブトには「チセ」というアイヌの人々が暮らす家が、8軒ほど並ぶ小さな集落があった。彼らの協力も得て、晴れて1901年に開拓の鍬が下されることとなる。

現在の下川町は、冬になると冷え込めばマイナス30度まで下がることもある。達造たちが入植した時代も、おそらく寒さの厳しい冬を過ごしたに違いない。

命をもおびやかす厳しさを物ともせず開拓を進められたのは、本州にいる家族の期待や、豊かな土地で暮らしを築く夢……は、もちろん原動力だっただろう。

それに加えて、達造と近文の酋長とのやりとりから始まり、移住してきた人々とアイヌの信頼関係が、のちの開拓を支えたように感じる。

「自分たちのことは自分たちで」。

開拓するにあたり、現地の中心人物は国のお役人ではなく、達造と藤原次郎左衛門だったと言われている(*2)。

不定期に訪問する役人はいたようだが、現場を仕切り、日々の作業を細かく考えたり指示を出したりするのは、主に達造と次郎左衛門が中心だったそうだ。

(*2)下川町ふるさと交流館内資料参照

国道舗装工事(道相銀前)
国道舗装工事の様子。年代不明

民間主導の開拓の歴史の他にもう一つ、印象深い出来事がある。

下川地区は従来も名寄市街とは距離的にも遠く、行政上の連絡は不便が多かった上、又この頃名寄町は漸く都市的色彩が濃く、純農部落としての下川地区とは相容れざるものもあった。

且つ下川地区としての経済力も出来て来たので、漸く下川市街を中心として分村への機運が高まって来て部落からもその声が出るようになった。(「下川町史」p184より引用)

現在の名寄(なよろ)市の一部だった下川町では、下川方面に住んでいる人々から独立したいという声が上がり始めた。

これが、1921年(大正10年)のことだ。

大正十三年(一九二四)一月一日下川地区は名寄町より新しく下川村として分村した。

明治三十四年この地に入植以来、上名寄村〜名寄町の世話を受けて来たが、二十三年目に母町を離れ独立したわけである。(「下川町史」p210より引用)

「独立したい」という声が上がってから約3年で、下川村として独立を果たした。これが、現在の下川町の前身だ。

当時、分村・独立運動がどれくらい盛り上がり、自治体として独立するのにどれくらいのスピード感が必要だったのかは、分からない。

けれど、現在の下川町にあたる地域で暮らしていた人々の声が、独立の発端になっていることは間違いないようだ。

これと似たようなことが、2004年にも起きている。

当時、日本の多くの市町村が、いわゆる「平成の大合併」と呼ばれる問題にぶつかっていた。町内では、なんども町民向けの説明会や議論が重ねられ、「市町村合併問題に関する町民アンケート」がおこなわれた。

その結果、全体の町民の70パーセント以上が「単独町を望む」「当面の間、単独を望む」と回答。

結果、下川町はどこの地域とも合併せず、今日に至る。

寿商店前(昭和16年7月)
昭和16年7月。現在の「寿フードセンター」前

わたしが下川町で暮らし始めてから今までに感じた風土は、いくつもある。

誰かに説明するときに、強調して紹介するのは「他人に干渉しすぎない姿勢」、「新しいことを始める時に周囲が見守ってくれる雰囲気」、そして「群れずに自分のことは自分でやる強さ」だ。

こうした風土は、もしかしたら開拓時に民間主導で指揮を取っていた頃から、少しずつ醸成されていったのかもしれない。

下川市街全図㈼
昭和初期の下川町市街地

北海道に来て印象的だったことは、まっすぐな道以外に、もう一つある。

それは下川町に限らず、道内で知り合う道産子たちが「北海道は歴史が浅い」と、自虐的にポロッとこぼすことだった。

「北海道は歴史が浅い」。彼らの台詞は、時折こう続く。

「歴史が浅いから、他の地域に比べると何もないんだよね」。

この「歴史が浅い」という表現が、ずっとひっかかっていた。

福岡近辺で卑弥呼が祝詞を唱えていたとき、北海道では続縄文文化という、現在知られているようなアイヌの生活様式より往年のスタイルで、生活していた人々がいた。

「歴史が浅い」のではない。「知られている歴史のスタート地点が違う」だけ。

浅い歴史なんて、ない。

「北海道」という名前がもつ歴史が150年だけれど、それが長いと感じるか、短いと感じるかは視点の置き方で変わる。

人々の歴史は「北海道」と命名されるよりずっと前から、営まれていたのだから。

一方で“自治体”として成立したと同時に、地域に対する町民の自意識が芽生え、風土をつくってもいると感じる。その風土は「県民性」と表現されたりもし、それらのすべてが当てはまるわけではなくとも、なんとなくの傾向はある。

だからこそ、名寄村から下川村として独立し、近隣市町村と合併しなかった事実は、地域にとって価値になった。もっといえば、住んでいる人々が主体的にその選択をしたことが価値に、なった。

決して多くはないけれど、あえて下川町で暮らしたいと思う人が集まる理由は、「自分たちのことは自分たちで」という意思で選択を重ねてきた歴史に、支えられているのかもしれない。

北海道下川町

参考資料

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立花実咲

1991年生まれ、静岡県出身の編集者。生もの&手づくりのもの好き。パフォーミングアーツの世界と日常をつなぎたい。北海道下川町で宿「andgram」をはじめました。→ さらに詳しく見る

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「自治ってなんだ?!」を考える禍福の途中

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