どんな業界にいて、どんな仕事をしていても、「会社だからできること」「個人だからできること」がそれぞれあるのだと思います。
If you want to go fast, go alone, if you want to go far, go together.
(早く行きたいならひとりで行け、遠くへ行きたいならみんなで行け)
これは編集長の伊佐も日常の端々でよく言っている言葉で、どこかの国のことわざなのだそう。
たとえば、この【宮崎県小林市】の地域特集の記事はもう20本以上更新されているのですが、このような大きな特集企画には私「ひとり」では関わることはできません。
灯台もと暮らし編集部という組織、「みんな」がいたからこそできたことが、たくさんありました。
さて、私(小山内)がこんなことに気づいたのは、宮崎県小林市に暮らす高津佐雄三さんという男性を取材してからでした。
高津佐さんは、もともと高津佐園芸という菊農家を家族で営んできた方です。
高津佐 雄三(こうつさ ゆうぞう)
株式会社はなごころ代表取締役。宮崎県小林市の菊農家で生まれ、短大卒業後は愛知県の大手自動車メーカーやうなぎの選別所に勤務。Uターン後就農し、家族で実家の菊農家を営む。「みやざき次世代農業トップランナー養成塾」を卒塾後、2017年の7月に実家の高津佐園芸を法人化する。
2017年の7月、高津佐さんはお父さまから会社の経営権を譲り受け、家族で営む個人経営の形から法人格を取得し法人経営に方向転換します。
個人経営という体制から、法人という形に舵を切ったのには、どんな理由があったのでしょう?
菊農家を営む高津佐さんの胸のうちに迫ります。
(以下、高津佐 雄三)
見えない部分にもこだわりがある。高津佐園芸の電照菊
うちはもともと、専業の菊農家なんです。
ラナンキュラスが流行り始めた頃にラナンキュラスの栽培もやってみたりしたんですけど、4年前にこのハウスを買ってからは、再び菊一本でやっています。
夏は4種類、冬は5種類、年間で9種類の菊を通年で栽培しています。
通年で栽培できるように「電照菊」という栽培方法をとっているんです。菊は、日照時間が短くなると花芽を形成し、開花するという性質がある。その性質を利用して、ハウスの中で人口の光を当てることにより開花を遅らせることができます。
そうして夏や秋に咲く菊を錯覚させ、冬や春に開花させて通年で出荷することができるんです。
菊農家をやっていて嬉しい瞬間はやっぱり、「高津佐さんのところの菊はいいね」と言ってもらえることですね。
花は見てなんぼの世界だから見た目が大切なんです。でも、うちは父の代から見えない部分もこだわっていて、それはなにかというと「日持ち」。
父からは、このハウスを買った4年前に生産管理の権利と、そして2017年の7月には経営権まで譲ってもらいました。今は法人化したけれど、父が築き上げてきた菊の栽培技術と、周りの人脈、そういうのに今でもとても助けてもらっています。
そこはずっと、これからもだいじにしていきたいなって思いますね。
うなぎ選別所の派遣社員から、農業に本気になるまで
僕は3人兄弟の末っ子なんですけど、子どもの頃から兄弟の中でもいちばん農業の手伝いをしていました。漠然と、「大人になったら自分も農業をするんだろうな」と思っていたので、高校も短大も農業の学校へ。
卒業してからは実家の手伝いをし始めたんですけど、1・2ヶ月くらい働いてふと、
「このまま、世間を知らないで大人になっていいのか?」
と思ったんです。
そこから地元である宮崎県小林市を出て愛知県へ。仲のいい友だちが愛知で働いていたので、友だちの紹介で自動車の工場で働くことになりました。「農業」に関しては、正直そのときはもう、「このままやらなくてもいいかな」くらいの気持ちでした。
けれど、自動車工場のあとに「うなぎの選別所」で働くことになったことがきっかけで、もう一度農業に目覚めたんです。
うなぎの選別所では、いいうなぎとそうでないうなぎを太さや色で選別していたのですけど、僕は派遣社員の身でありながら、いいときは月給40万円くらいも稼いでた。周りの社員の方から妬まれたりもしたのだけど、それがまた僕を本気にさせ、ちょっと頑張ったら今度は「社員になってほしい」という話もきて。
自分はその気がなかったので、社員の話は断らせていただいたんですけど、それがきっかけで、「がむしゃらにやったら、なんでもできるんじゃないか」という気持ちになれたんです。
うなぎの選別所で精神的な学びがあったんでしょうね。以前よりずっと自分に自信がつきました。
そうしたら今度は無性に農業がやりたくなって。奥さんを連れて、小林に帰って農業をすることに決めました。
それが25歳のとき。「人間、やればなんでもできるんだ」という気持ちひとつでしたね。
ラナンキュラスへの挑戦と菊一本に振り切った理由
僕が小林に帰ってくる一年前から、世間ではラナンキュラスという花がブームになっていて、実家でも菊栽培に加えラナンキュラス栽培を始めていました。
実家に帰ってきて僕が最初に担当したのはラナンキュラス。それまで農業の学校を出ていたから知識はあったけれど、実践の経験はゼロ。だからなんでも勉強のつもりで取り組みました。
長野県にある日本でいちばん大きいラナンキュラスの生産者グループの視察に行ったり、宮崎県内の高千穂という地域もラナンキュラスの栽培で有名なので、そこの生産部会の部会長さんからいろいろ学ばせてもらったり。
とにかくいいものをつくりたくて、日本中あちこち足を運んで勉強しました。
そうしたら、それまで1本50円程度だったラナンキュラスが最終的には100円以上の値段に。でも僕は、調子がいいところでラナンキュラスから降りちゃったんです。
ラナンキュラスは、3月が開期です。けれど小林は、3月に頻繁に雨が降ります。それで花にシミがついたり、病気になったりしちゃう。
けっきょくは生産者がそれを許せるか許せないかだと思うんです。せっかくいいものをつくりたいのに、規格を落として出荷しないとお金が入ってこない。そのジレンマに苦しんで、精神的に参ってしまいました。
一方で菊は、強い花なんです。自分の管理次第で病気を防ぐことができます。
……けれど、どうだろう。今だったら、ラナンキュラスもあの頃よりいいものがつくれそうな気はしているんですけどね(笑)。
個人経営から法人にしたのは、ほしいと言ってくれるひとに届けるため
菊一本に決めたと同時にハウスを買うことになったのは、父親の親友の後押しがあったからなんです。
その方は谷山さんといって、僕にとっては農業の師匠のような存在なのですけど、
「一緒にあかるい農村をつくろう」
と言って、彼がこのハウスを買うことを僕に勧めてくれました。今でも彼とはよく飲みに行って、「小林にユートピアをつくろうよ」とふたりで夢を語っています。
そんな高津佐園芸を個人経営から法人化しようと思ったのは、僕個人の希望からでした。
僕のいい農業の条件は、モノとしてのよさ、見た目と日持ちが守られていること。そして、「ほしいと言ってくれるひとにちゃんと届く」こと。
けれど、農業人口不足の日本では、個人経営という形をとり続けていたら人手不足の問題は解決されず、供給が追いつかないんじゃないかと疑問に思ったんです。そして、この問題が解決されないと、自分の「届くべきひとに届けたい」という想いも実現できないと思って。
法人にしたのは、ひとを雇っていこうと決めたから。
雇用を増やして規模を拡大すれば、お客さんの気持ちに応えることができる。また、労働体制や研修制度の面などで雇ったひとと信頼関係を築いて働いてもらえる環境をつくることが、これからの農業を志すひとたちにとって、とても大切なことのように思えたからなんです。
これからの農業は法人がいいとか、個人がいいとかを一概に言うことはできません。法人だからできること、個人だからできることがあるし、なにがしたいのかによって見えてくる選択肢がちがってくるだけだと思うから。
あかるい農村をつくりたい
これからやりたいのは研修生をうちに入れて、未来の農業を考える経営者を育てることです。
なんでもいいんです。うちは菊農家だけど、入ってくれるひとたちが将来的に牛をやっても、野菜をやっても、なんでも支えてあげたい。
菊の後継者をというよりは、農業の後継者を育てたいんです。だから、なにに一生懸命になるかは関係なくて、ただうちでなにかを学んで、やりたいことを見つけてくれればいいかなって。
たしかに自分の隣で、おんなじ気持ちで菊をやってくれたら、僕自身はモチベーションも上がるしとても助かります。
でも、今農業を志している人たちが、これからどうなっていきたいのかを考え、それをちゃんと実践していくことの方がずっとだいじなことのように感じます。
このハウスを買ったときに、「あかるい農村をつくろう」と決め、それは今でも変わりません。やりたい農業をみんなが実践できている、それがあかるい農村への一歩なんじゃないかと思うんです。
菊農家としてはブレブレなのかもしれないけど、そういう想いが「ひとを雇っていこう」と決めた僕の心の中に、ずっとあったんだと思います。
編集後記
人手不足の問題を解決したい。そして、みんながやりたい農業を実践できるような「あかるい農村」をつくりたい。
これが高津佐さんが、個人経営から法人経営という形で農業をやっていこうと決めた理由でした。
そして、「そんなユートピアをつくることが、このハウスを買ったときからの大きな夢です」と高津佐さんは言います。
“早く行きたいならひとりで行け、遠くへ行きたいならみんなで行け”
信頼関係で結ばれた人たちと手を取り合って、自分の専門である菊だけでなく、もっと大きな農業をやっていくと決めた高津佐さん。
そんな高津佐さんは、今この瞬間も一歩一歩、あかるい農村という夢に近づいているのだと思います。
高津佐さんの取材を終えてみると、「早く行きたいならひとりで行け、遠くへ行きたいならみんなで行け」という言葉に私(小山内)は、それを初めて聞いたときよりもずっと納得することができました。
描く理想や解決したい課題に現実味を持てないとき、「それは、みんなでだったらどうだろう? 」と、これからは考えてみたいです。
文/小山内彩希
撮影・編集/伊佐知美
(この記事は、宮崎県小林市と協働で製作する記事広告コンテンツです)