革製品のブランド「Lepanjao」(レパンジャオ)を営む今村孝矢さんは、20代を東京でヘアメイクとして過ごし、あることをきっかけに小林市にUターンします。
ひとの頭に触って髪の毛を切ったり、メイクしたりする美容師の仕事は、コミュニケーションがつきものでした。それに比べ、ものをつくるのはひとりで行う孤独な作業。自らと向き合い、作業に集中するときには、なんと30時間以上も手を動かし続けることもあるといいます。
革職人になったきっかけは、友人の勧めだったのだそう。革で商品をつくって、とても喜ばれる経験をした今村さんは、嬉しさのあまり革職人への道を歩み始めます。
東京時代はフリーランスのヘアメイクをやっていた
── わっ、すごく広いスペースですね。作業場みたいな所を想像していたので、広くて驚きました。
今村 このカウンターより奥が作業スペースです。手前側はショップにしていて、お客さんが商品を実際に手にとって、質感を確かめられる場所にしています。目で見て、触って、よりきちんと物を知ってもらえる環境をつくりたかったんです。
自分以外の作家さんの商品も、ここで扱えるようにしています。たとえば他の業種の作家さんとコラボレーションした作品を展示したり販売したりしたくて、今、企画中なんですよ。自分だけではなくて、いろんな作家さんの作品を、たくさんのひとに見てもらうスペースとして使っていきたいんです。
── 奥は撮影スタジオですか?
今村 そうですね。商品をきれいな写真で見てもらえるように、スタジオもつくりました。
── 小林市で革職人になるまでのストーリーを聞いてもいいでしょうか?
今村 もともとは美容師をやっていました。19歳のときに美容師として上京して、東京にいたのは19から30歳までの約10年間。僕の場合はサロンに所属せずに、フリーランスとしてヘアメイクをやっていました。昼間はヘアメイクの仕事をして、夜はWAREHOUSE702という、いわゆるクラブみたいなイベントスペースで働いて、バーカウンターの中でお酒をつくっていました。
── ヘアメイクをやりながら、なぜ夜にクラブの仕事をしていたんでしょうか?
今村 イベントのハコってところがポイントなんです。そこは完全にクラブというわけではなくて、様々なイベント、ヘアーショーとかファッションショーを、クラブのイベント営業とは別にやっていたんです。最初にそのお店で働き始めるときに、社長に「僕は美容師として東京でやっていきたい、フリーランスとしてやっていくうえで必要なつながりをつくりたいんです」と伝えたんですね。
だったらバーカウンターに入って自分で営業したらいいんじゃないかと言ってもらえて、働きながらイベントの主催のデザイナーさんとお話させてもらったりとか、ヘアメイクをやらせてもらったりとかして、名刺の肩書きも「ヘアメイクアーティスト」としてくれました。
革職人になったきっかけ
── そこから、どう革職人になっていったんですか?
今村 僕自身、革製品が好きだったのもありますが、30歳になって小林市に戻ってきて、動物の保護活動をしている友人と出会ったのが大きなきっかけでした。あるとき僕が飼っていた猫が手術をしなきゃいけなくなって。保険が効かないから20万円を超える治療費が必要だったんですが、当時の自分の給料で払える金額ではありませんでした。
だからお金をつくるために、動物の保護活動をしている友人の施設のカフェスペースで、夜の空いた時間にバーをやらせてもらうようになりました。もともとはそれがきっかけで施設に出入りするようになったんです。猫は、普通だったら殺処分になってしまう状態で、医者からも「絶対に助からないよ」って言われていたけど、なんとか手術して助かる可能性があるなら、助けてあげたくて。
その猫の名前がレオっていうんです。施設のボランティアさんが「まるでレオのお父さんみたいだね」って言ったところから、ブランド名ができました。ブランド名は造語なんですけど、panjaというのは、アニメの「ジャングル大帝」の、レオのお父さんの名前なんです。leoの間にpanjaを入れて、Lepanjao(レパンジャオ)。
それであるとき、その友人から「保健所から引き取った猫に首輪をつくりたい、つくってほしい」と言われて。
── えっ、ヘアメイクの仕事をしていたところ、いきなり「革の首輪つくって!」という話になったわけですか?
今村 そうなんですよ(笑)。その友人とは付き合いが長くて、僕のことをよく知っている上で「孝矢、つくれそうだよね、ちょっとつくってよ」って言ってくれました。
── すごい。唐突に革製品をつくることを始めるわけですね……。
今村 もちろんつくったことなんかなくて、でもなぜか「つくれないわけない」って思ったんです。というのは、ベルトに金具をつけて、穴を開けるだけだったので。最初は、言ってしまえばそれだけでした。そうしたら僕がつくった首輪を見た他のボランティアさんが「わたしも欲しい」と、どんどん注文をくれるようになっていったんです。
僕の場合は師匠がいなくて、完全に独学なんですね。参考書を読んだり、それこそネットで調べたり。革の特徴とか扱い方は、つくっていく上で学んでいった感じです。だから制作を始めたばかりの頃のものは、性質が合った革を選べていなかったときもあって、正直に言えば出来がいまいちだったと思います。
自分が一生懸命つくった商品ともまだ呼べないような商品を、必要としてくれたひとがいたことで、もっといいものをつくりたいという気持ちが自分の中に出てきました。自分がつくったものを喜んで買ってくれるひとがたくさんいたから、今の自分があるんだと思います。
祖母のために、小林に戻ってきた
── 30歳になったときは、どうして小林に戻ることにしたのでしょうか?
今村 ヘアメイクをやっていたときに、クラブを辞めるのは30歳と決めていたんですけど、あるとき美容の関係者が「辞めて、そのあとどうするの?」「青山の骨董通りにお店を出すんだけど、そこでやらない?」という話をくれたんです。
── 当時の今村さんにとっては嬉しい話でしたか?
今村 嬉しい話でした。だから僕は「せっかくなので、やらせてもらいます」と返事をするつもりで、一度、親に会いに小林に帰ってきたんですよ。自分でお店をやると忙しくなって、めったに帰ってくることはできないだろうなぁと思って。
それで自分の実家に帰ると……家には祖母がいたんですけど、変わり果てた姿で座っていたんです。聞いてみたら、認知症とパーキンソン病で。母と一緒に住んでいたのですが、母は昼間ひとりで仕事に出ていました。
どんな状態なのかをいろいろ母に聞いて、それから半年くらい、身の回りのお世話を僕がするために一時的に小林に留まることになったんです。そのとき僕はまだフリーランスで、祖母の病気の状態が落ち着くまでは一緒にいようと思っていました。
そんな中でお世話になった美容師の先生に「とりあえずお金は稼がなきゃダメだよね。うちを手伝いなさい」と、仕事をくれて。だから、しばらくの間は美容室で働きながら、祖母の面倒を見ている状況になったんですね。その時点ではまだ東京で美容の仕事をすることを完全に捨ててしまっていいのか迷っていて、先生に相談したことがありました。
そうしたら「おばあちゃんの面倒を見るのは、自分にしかできないことなんだから、東京で仕事できないことを悪く考えないで。与えられたことには意味があると考えて、自分にとって本当に必要なことと向き合えば、いいんじゃないの」って言われたんです。それで吹っ切れて、自分がやれる限りは小林でがんばろうって決めて、祖母の面倒を見ながら、徐々に革の仕事にのめり込んでいきました。
── 振り返ると、その選択はよかったですか?
今村 今のほうが、自分らしく生きられているのかなって。東京にいた頃はどこか、美容業界のしがらみみたいなものを自分で勝手に感じていたと思うんです。今は、自分のやりたい革の仕事に対して、まっすぐ向き合えています。
寝食を忘れて30時間以上手を動かし続けることも
── 製品をつくるときに、革を形にしていくのが楽しいとか革の感触が気持ちいいとか、様々な気持ちがあると思うんですけど、どこが一番の魅力ですか?
今村 んー……つくっている最中というよりは、つくったものを使ってもらっているところを見るのが一番気持ちいいです。だから、つくっている工程は、はっきり言ってそんなに楽しくないです。神経を使うから、ものすごく疲れるんですよ。たとえば1個集中してつくると、30時間かかるんですね。つくり始めたら30時間は手を止めないんです。
── はい……。30時間というのは、ご飯を食べたり、寝たりはするんですよね?
今村 ないです、ないです。
── えっ、本当に30時間ぶっ続けですか!?
今村 ホントに30時間ですね。僕は自分で「ソーイングハイ」って言っています(笑)。縫うことにテンションが上がって、ずーっと手が止まらなくなるんです。逆に言えば、気分が乗って集中できる状態にならないと、手を止めちゃうんです。じゃないと、すごく手を細かく動かす仕事なので、仕上がりに影響が出てしまうんです。
── ソーイングハイのときのほうが出来がいいものですか?
今村 そうですね。大きいものは工程を数日に分けてやるんですけど、最終的な仕上げの段階で、ハイになったら早いです。縫い目やステッチってやっぱズレるんですね。手で穴を開けているので、測って揃えて穴を開けるミシンや機械を扱う作業とは違うんですよ。
手で穴を開けるのは、まっすぐに開けているつもりでも、少しでも斜めに針が刺さると、縫い目がズレていってしまう。それは、自分の状態がかなり影響します。縫い上げたときに、きれいにまっすぐ均等な幅で出来上がると、「ああ、調子よかったな」って思うんです。
── たとえばヘアメイクをやっているときは、そういう気分を味わったことってなかったですか?
今村 何かをつくる、表現するという意味では似ている感じもするんですけど、僕にとって絶対的な違いがあって。ものをつくるのは、孤独な作業なんですよ。対して美容の仕事は、常に「対お客さん」ですよね。コミュニケーションが必須の仕事なんです。今思えば、自分ひとりでやる仕事のほうが向いていたのかもなって思います。
── ご自身の中で、ものづくりをする上で大切なことってなんだと思いますか?
今村 クサいことを言うようですけど……情熱ですね。よりよいものをつくりたいという情熱がなかったら、できないと思います。自分がつくったものに自分で満足するかというと、毎回、何かしら「あっ」って思う気づきが必ずあるんです。それを絶対に忘れないで、次に活かす。財布とか今までつくったことのあるものではなくて、たとえば靴をつくろうとすると同じ革でも造形が全然違うわけですよね。
初めてつくるときは、自分の想像していた寸法と、型に起こした際のサイズ感が違うんです。それでもやっぱりまたイチから学んでいくことがおもしろいんですね。そこに対する情熱がなくなってしまったら、工場に生産・発注したらいいじゃんって話なので。
自分のブランドを育てることが、何よりの小林への恩返し
── 目標やゴールって考えたりしますか?
今村 すごく欲張りなことを言うと、Lepanjaoをメイドインジャパンとして誇れるクオリティのブランドにしたいです。海外のひとたちが求める、繊細な日本製の仕上がりや縫製技術を主張できるブランドにして「日本の革職人で腕のいいやつがいるらしいぞ」と言われるようになったら最高ですね。
自分が革の商品をつくっていた初期の頃に買ってくれたお客さんに、「Lepanjaoの初期の商品を持っているんだよ」ってちょっとしたステータスに思ってもらえるくらい極めたいんです。自分がいつかできる恩返しがあるとしたら、そういうことなんじゃないかなって思っています。
僕が小林に拠点を構えるひとつの理由って、今は、環境を選ばずにやっている仕事を発信できるからなんです。昔と違って、飛行機が安くなって東京に行くことも気軽になりましたよね。時間さえつくれれば行けてしまう。そういう時代だと、こういう店舗を持つときには小林のほうが絶対に空間を贅沢に使えます。
都内だと音がうるさいから、夜中に革の製作ってできないんですよ。自分の創作活動がすごく制限されてしまう。今の時代は、田舎だからこそできるモノづくりが必ずあると思うんです。どの業界でもそうで、陶芸家もそうだし、鉄の加工の職人さんもそうですよね。都内ではできないこと。
小林だからこそ、土地やスペースを用意できて、ものづくりをする人たちが増えていくとか、自分の好きなことを仕事にして生きていくひとが増えていくとか、そういうことが起きたら楽しいし、すごいなって純粋に思います。
── 恩返しじゃないですけど「小林でやっています」って伝えたい気持ちもあるんでしょうか?
今村 僕にとっての小林って、自分がこの仕事を始めて、とてもお世話になったひとがたくさんいる場所なんですね。いろんな方がアドバイスや助言をくれたり、様々な機会を与えてくれました。僕、何かを与えてもらったことって絶対に忘れないんです。このひとにあのとき助けてもらったな、あのときにこういう機会をもらったな、って。
極端に言うと、そういうひとたちが小林に全然愛情を持っていないなら、小林のことを宣伝する必要はないって思います。でももちろん実際はそんなことなくて、お世話になった方々が、小林を盛り上げるためにいろんな活動をしているので、自分にできることがあったら助けたいし、盛り上げたいです。
小林に対して具体的に何かしてあげられるほど、まだ自分自身の力はないんですけど。いずれはLepanjaoを世界に誇れるブランドにして、その結果、小林のことも盛り上げられたら最高ですよね。
(この記事は、宮崎県小林市と協働で製作する記事広告コンテンツです)
お話をうかがったひと
今村 孝矢(いまむら たかや)
1981年、愛知県豊田市出身。1993年、宮崎県小林市に引越し。2001年に上京し、フリーランスでヘアメイクをしながらWAREHOUSE702勤務。2011年、宮崎県小林市に引越し。2013年、革製品の製作を始める。オーダーメイド商品を中心に、宮崎、東京でフリーマーケット、ワークショップ、展示会などをする。2016年、小林市内にLepanjaoの店舗をオープン。