郷に入る

【チェストいけ!文学旅行 鹿児島編】天文館は大きな”消しゴム”なのです:第2回

文学の舞台を訪ねる。作品に出てくる料理を作る。作家の暮らした街へ行く──”文学を旅行する”連載「チェストいけ!文学旅行【鹿児島編】」、その第2回は向田邦子のエッセイ集『父の詫び状』で、繁華街・天文館周辺を旅します。

市街を走る路面電車を『天文館通』で降りると、頭上に広がる碧の濃い空に、一朶の雲のように見える”消しゴム”が浮かんでいました。

天文館通り
天文館通り 写真提供:かごしま文化研究所

いきなりですが、作家・向田邦子について、ボクはひどい先入観──女子力の高い方々が読む作家だ──を持っていて、食わず嫌いをしていました。鹿児島へ文学旅行に出掛けなければ、ボクはこの名文家の味わいを知らずに、今でも毎日の生活に追われていたことでしょう。

ここまでの道中で、しかし、そのひどい先入観は吹き飛んでいました。路面電車の中で使った文庫本の、最初の一編でまず目を開かされ、次の一編で世界が劇的に広がっていき、天文館に降り立つ頃には、ボクはそれまでの不明を恥じ入るようになっていました。

その文庫本──『父の詫び状』──は24の掌編からなるエッセイ集です。収録されている一編一編はどれも珠玉のようで、その達人ぶりは同書の巻末で解説を担当した沢木耕太郎が以下のように記すほどです。

《躯(からだ)の上に大きな消しゴムが乗っかっている》
それはこのような意表をつく書き出しで始まっていた。(中略)
意表をつく出だし、過不足ない情景説明、スリリングな展開、巧みな心理描写、そして卓抜なエンディング。読み終えた私はその冴えた手並みに驚き、あらためて筆者の名を見ると、向田邦子とあった。テレビドラマの脚本家としてではなく、見事な文章家としての向田邦子の名を強烈に印象づけられたのはこの時が最初だった。

(『父の詫び状』解説──沢木耕太郎より)

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)
父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

 向田邦子の”消しゴム”は、漏れていくガスの隠喩です。ストーブのガス漏れによって、あやうく事故死するところだった独り暮らしの女性を描くこの掌編で、彼女は人間の感情がどういうものか、見事にうがつのです。それも「卓抜なエンディング」の一文だけで。

こうした表現法を、向田邦子はどこで自らのものにしたのでしょうか。その謎を解く鍵を探しにボクは、天文館通りからほど近い、かごしま近代文学館へ向かうことにしました。

かごしま近代文学館の人々
左から、学芸員の井上育子さん、受付の神野さやかさん。井上さんは『字のない葉書』『ごはん』の2編が強く印象に残っているという。

1981年、向田邦子は台湾旅行の途上、飛行機事故により急逝してしまいます。享年51。貴重な遺品の数々は、後にオープンした、かごしま近代文学館に寄贈されました。それは、施設側の申し出にご遺族が応えたもので、ご母堂の言によれば「鹿児島に嫁入りさせる」気持ちだったといいます(いきさつは、実妹の向田和子による『向田邦子の遺言』文藝春秋社刊に詳しい)。

向田邦子本人もまた、鹿児島で過ごした時間を自らの原点であると記していました。東京で生まれた彼女は、父親の転勤により小学校を4回も替えており、そのうち鹿児島で生活したのは3年生からの3年間です。たったそれだけの時間にもかかわらず、彼女はこの地を故郷のように感じていました。

格別の才もなく、どこで学んだわけでもない私が、曲がりなりにも「人の気持ちのあれこれ」を綴って身すぎ世すぎをしている原点──というと大袈裟だが──もとのところをたどって見ると、鹿児島で過ごした三年間に行き当たる。

(『父の詫び状』薩摩揚より P251)

かごしま近代文学館
向田邦子の常設展

かごしま近代文学館には、彼女の日常生活を彩っていた日用品の数々が常設展示されているだけでなく、終の棲家となった青山のマンションの間取りが掲示されるなど、とても丁寧なつくりの資料が揃っています。中でも、一番興味を引かれたのは、壁一面に掲げられた大きな地図でした。エッセイで描かれた鹿児島の名所が著作の一文と共にプロットされており、鹿児島もまた向田邦子を郷土出身者のように迎え入れていることが伝わってきて、とても好感の持てる資料です。

ガラスケースに収められた生原稿には書き直しの跡もあり、その手書き文字を追っていくうちに、ボクは謎を解き明かす鍵の一つに思い至りました。

春霞に包まれてぼんやりと眠っていた女の子が、目を覚まし始めた時期なのだろう。お八つの大小や、人形の手がもげたことよりも、学校の成績よりももっと大事なことがあるんだな、ということが判りかけたのだ。今までひと色だった世界に、男と女という色がつき始めたといおうか。うれしい、かなしい、の本当の意味が、うすぼんやりと見え始めたのだろう。この十歳から十三歳の、さまざまな思い出に、薩摩揚の匂いが、あの味がダブってくるのである。

(『父の詫び状』薩摩揚より P251〜252)

 この作家にとって鹿児島での3年間が原点なのは、そこで過ごした時期が人の心の機微に気づき始める年頃と重なっていたから、という説明が一番しっくりくるかもしれません。しかし、ボクには、逆な気がします。それは……

もし人の感情に量があるとすれば鹿児島県人は全国平均より多量ではないか、などとこれまた珍妙な先入観がボクにはあります。いわば薩摩隼人のイメージによるものですが、ボクの周囲にいる鹿児島県出身者の多くは確かに血が濃いのです。そんな喜怒哀楽の激しい鹿児島との巡り合いが、のちにあまたの名文をつむぐ作家の感受性に影響しなかったはずはないと思うのです。これが他の土地だったら、きっと違うかたちになっていたはずだと……。

『父の詫び状』に描かれる鹿児島の風景は、天文館であれ、天保山であれ、照国神社であれ、山形屋デパートであれ、それがそのままで終わることはありません。それらは、何か別の記憶と結びついて縦横無尽に展開され、やがて”学校の成績より大切なこと”をそっと教えるための、材料の一つとなっていきます。青い葡萄がワインになるように、そうした思い出の連鎖を甘く切なく熟成させる器として、鹿児島・天文館の街並みと人々の営みは、これ以上ないほど濃密で美しかったことでしょう。そんな感傷的な想像を抱かせる雰囲気を天文館周辺は今も残しています。

翻って言えば、『父の詫び状』の文学旅行は、向田邦子が過ごした場所を追体験するだけでは終わりません。彼女の提示する”思い出”という価値観を自分に照らし合わせたとき、いったい何が該当するのか、そんな想像力の旅行をする愉しさが、そこから生まれてくるからです。

例えば、ネットで検索するとすぐ分かりますが、向田邦子をめぐる鹿児島の観光案内では、よく”じゃんぼ餅(両棒餅)”が取り上げられます。磯浜(磯海水浴場)名物の団子です。ネットの情報にならい、じゃんぼ餅を食べに行くのも一興ですが、ボクたちの文学旅行は、それだけにとどまりません。

海へ行った帰りに家族で食べたおやつの思い出は誰にでもあるものです。ちなみにボクの場合、海水浴のあとは必ず”麩菓子”でした……。そうした家族との思い出、生活の思い出は、実はとても大切な、かけがえのない宝物ですよ、と向田邦子は教えてくれるのです。ですから、ここは、大いに想像力の旅行をしていきましょう。

読者諸兄諸姉の皆さま、あなたは思春期の入口で、何をしていましたか? どんな思い出がありますか? その思い出は今のあなたの何に影響していますか?

あなたにとっての天文館はどこですか?

山下小学校
山下小学校。同校では、没後30年を機に向田邦子賞を設け、子供たちの”キラリと光る”作文を、毎月、表彰している。校門の脇に、掲示板が設置されていて、ほほえましい。

ボクにとって、天文館通りで仰ぎ見た一朶の”消しゴム”は、青空に浮かぶ雲ではありません。漏れていくガスでもありません。それは、本当の向田邦子に出会う今回の旅のように、やっかいな先入観を消すためのとても痛快な道具(=文学旅行)のこと……なのでした。

バンザ〜イ!

旅のお供──

向田邦子:文庫本『父の詫び状』
掌編『消しゴム』(『眠る盃』収録)

旅をした場所──

天文館周辺:JR鹿児島中央駅から市電で天文館通まで約10分
かごしま近代文学館:天文館通りから徒歩約10分
山下小学校:天文館通りから徒歩約10分。

次回は、指宿の砂むし会館を与謝野鉄幹・晶子『霧島の歌』で、坂本龍馬とお龍が新婚旅行した塩浸温泉を『坂本龍馬の手紙』で、旅します。

取材協力:かごしま近代文学館 NPOかごしま文化研究所

鹿子沢ヒコーキ(かのこざわひこーき)
文学で地域活性化を手伝うNPO法人の代表。表仕事は出版社で編集長。
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小松﨑拓郎

ドイツ・ベルリン在住の編集者。茨城県龍ケ崎市出身、→ さらに詳しく見る

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