いつもと暮らし

強く優しく生きるため、「言葉の一面」を探る

社会人1年目のころ、いちばん口にした言葉は「すみません」だったんじゃないかとふり返る。

ある日、「すみません」とテキストで打ちながらふと、「私って、仕事ができないヤツなんだ」と気づいた。

すみませんという言葉に、それまで無自覚だった自分の一面を洗い出されたのだ。

とても不思議なことだと思った。

まず自分を把握していて、そこに言葉を当てはめるではなく、まず言葉があって、その言葉に知らなかった自分を明るみにされる。

「私のことは、他の誰でもない私自身がいちばんわかっている」。

ついついそんな気になってしまうけれど、私じゃない誰かがつくった言葉なしでは「私はどんな人間か」意外とわからないものなのかもしれない。

でもそれは、「私そのもの」ではなく、「私の一面」に留めておきたい。

そう思ったのは、小説家の石田衣良さんのエッセイ『傷つきやすくなった世界で』を拝読してから。

エッセイの中で、石田さんは21世紀になって生まれた「新しい言葉」について、こんなふうに語る。


『ぼくはときどき不思議に思うことがある。

格差社会という言葉ができるまで 、社会にたいした格差は存在しなかったのではないか 。あるいは 、負け組という言葉ができるまで 、ほとんどの日本人は自分を中流階級だと単純に信じられたのではないか 。

ある現象が名前を与えられることで 、あとから急激にリアルな現実として立ちあがってくる 。それは言葉が現実を生んでしまう皮肉な逆転現象である。

けれども、ここで言っておきたいのだ。

自分に貼られたシールに負けるな。新しい言葉になど負けてはいけない。どれほど気が利いた残酷な言葉でも、あなたという人間全体を表すことなどできないのだ。』(引用:『傷つきやすくなった世界で』−集英社文庫−)

石田さんのエールは、「すみません」の回数で自分の価値を決められたような気がした私に、「言葉の前に、まず人間がある」ことを気づかせてくれた。

今、本屋の棚には「伝える」ことに重きを置いた言葉についての本が目立つ。

けれどもしかしたら、伝え方と同じくらい受け止め方の話が必要とされているのかもしれない。石田さんのエッセイを拝読してからは、こんなことも思ったりした。

じつは言葉については、一つひとつ話していたらキリがないほどに、たくさんの疑問がある。

たとえば、「『緊張したくない』と思うほどに、緊張してしまうのはどうしてだろう?」とか。

「『貴様』や『お前』といった字面だけ見るととても丁寧に感じる言葉は、どうして無礼な表現とされるようになったのだろう?」とか。

「言葉は常に変化してきたわけだけど、それは進化なのか退化なのか」なんてことを。

ふり返れば歴史の教科書には、「火と言葉と道具を使うのが人間」と記されていた。

けれど、人間である私は、意外と言葉の一面を知らない。

毎日言葉を使っていて、言葉なしでは生きられないというのに、その性質については意外と知らないことの方が多いのだ。

それは、日ごろ言葉の海を泳ぐことに精一杯になって、言葉の一面を立ち止まって考えることをおざなりにしてきたせいだったりするのだけど。

でも生命を脅かすにまでは至らない。言葉の一面を知ることは「生きること」と直接的に関係があるわけじゃない。つまり、言葉の一面について知らなくても、生きてはいけるのだ。

今までだって、生きてこれたんだから。

けれど、言葉の一面を考えた方がきっと、言葉と切り離せない未来を生きる上で幸せだ。

今まで傷ついていた言葉に簡単に傷つかなくなったり、他人と優しく関われるようになったり。そういう未来が待っている気がする。

電車のつり革広告、携帯電話の中、職場の人や友だち。私たちは言葉を通して、社会と他人と自分と関わっている。

言葉の一面を考え、知ろうとすること。

それは、自分だけじゃなく他者とも強く優しく生きようとする、意志じゃないだろうか。

文・写真/小山内彩希

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小山内彩希

編集者・ライター。1995年生まれ、秋田県能代市出身。

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