小林市の市街地から宮崎自動車道へと向かう道の途中、小林ICの少し手前に「出の山公園」はあります。出の山池に面した公園の周りには鯉・マス・チョウザメ料理店がいくつかあり、その中にあるのが野菜ビュッフェ「ツナギィーナ」です。
橋本さんご夫妻の営むTSUNAGU株式会社は、障がい者総合支援法に基づく福祉サービス業の会社。取材を行ったツナギィーナは就労継続支援事業で、約15人の障がい者の方が働いているそうです。
和弥さんは、お父さんが社会福祉法人を経営されており、その跡取りとして育ちながら、紆余曲折を経て起業します。辛いこともあった中で、それでもおふたりは「この道でよかった」と語ってくれました。
障がい者の方の潜在能力を活かす事業
── はじめに会社としてTSUNAGUが行っている事業について教えてください。
和弥 私たちは株式会社として、障がい者就労支援をメインに行っています。厚生労働省管轄の事業で、障がい者の方が働くことを支援するサービスです。このレストラン「ツナギィーナ」とは別に農業もやっているのですが、そこで野菜を育てたり畑を耕したりする仕事を提供し、ここで得た収益はご本人たちの所得に反映します。
障がい者の方をバックアップするためには、事業としておしゃれで、美味しいお店をやらなくては工賃向上に繋がりません。利用していただく障がい者の方々も、お客さんが来ないところで訓練──名目としては訓練と呼ぶのですが──したくないでしょう。農業も、雇用を生むために行っていることですから、生産性のある技術を身につけられる農業じゃないと継続できませんし、意味がありません。自分たちの農園やレストランの経営をしながら、その基盤や仕組みづくりを行っている最中です。
紗耶香 たえとえば利用者の中には、耳が聞こえない方や、話せない方もいます。その方たちは草取りをすることができても、終業時間になると呼びかけるだけではこちらの声が聞こえなくて、気づかないこともあります。でも、終業の合図だったり、肩を叩いて「終わりですよ」と伝えることで認識できます。根本的に、できないことは無理にお願いせず、潜在能力を活かすのが私たちの仕事なんです。
── なるほど。おふたりが野菜ビュッフェ・ツナギィーナを始めるまでの経緯をお聞きしたいのですが、出会いから順番に聞いてもよいですか?
和弥 ふたりが出会ったのは、俺が19歳で、お前は何歳だったっけ?
紗耶香 「お前」はやめて(笑)。
和弥 はい(笑)。
紗耶香 3つ学年が違うから、初めて会ったのは私が22、3歳だったかな。
和弥 俺の出身が福岡県久留米市で、そこにある、うちの親父が経営している社会福祉法人に紗耶香が就職して出会ったんだよね。
紗耶香 私は小林市が出身なのですが、通っていた短大が福岡にあり、卒業後は久留米市で就職しました。
感性を育てたくて選んだ仕事
── 紗耶香さんが福祉のお仕事を選んだのはなぜですか?
紗耶香 私は短大が保育科で、もともとは母の影響で保育士になろうと思っていました。ただ、保育園や幼稚園の実習のときに、子どもはすごく創造性豊かなのに、型にはまった教育をするんだなぁと思ってしまったんです。お絵描きの時間に「目はここだよ」「ここに描かなきゃダメだよ」って教える先生がいたんですね。たしかに正解なんだけど、その子が描きたいように描いちゃダメなのかと思って。
先生いわく「よく見なさい」ということなんですが、私は、まずは描きたいように描くことが大切だと思ったんです。私が小さいときに、目と鼻を逆の位置に描いたのを思い出したりもしました。
幼稚園の実習で仕事のおもしろさを見つけられずにいたまま、障がい者の施設と養護施設にも実習に行ったんです。そのときに、これだ!と思ったんですね。高校のときからボランティアで手話をしたりとか、身体障がい者の施設に行ったりしていたのですが、自分がやりたいと思ったのはこれだったんだと再確認しました。
「目はここに描かなきゃダメ」というのは、もう少し大きくなって気づけばいいことだと思っていて。誰かのやることに、レールを敷く必要はなくて、個人が持っている感性をもっと育てたいと思ったから障がい者施設に関わっていくことのほうがピンときたのかもしれません。
和弥 視点が変わっていると言ったら簡単ですが、(紗耶香さんの)そういうところに惹かれたのかもしれません。
両親と兄を亡くし、起業を決意する
紗耶香 私たちが結婚したのは和弥が27歳のときだから、久留米でふたり暮らしを始めてから9年くらい経ちますね。
和弥 1年くらい単身赴任をして、昨年から小林に住んでいます。お父さんとお母さんが病気で亡くなったのは、4年前だっけ?
紗耶香 うん。
和弥 紗耶香の両親が亡くなったあと、じつは彼女のお兄さんがお義母さんの一周忌の前日に自殺したんです。私はその第一発見者でした。私は少なからず精神的にケアの必要な方とか、身体的にケアの必要な方を支援する仕事をしていたのに、なんで助けてあげられなかったんだろうと自分を責める日が数日続きました。
── そうですか……。辛いことが重なった中で、どのようにして小林への移住を決意したんでしょうか?
和弥 もともと私は、今から10年近く前の26歳の頃から、ずっと起業したいと親父に言ってました。当時は大反対されていましたが、義兄(あに)が死んだ4年前に「もう決めた」と思って、紗耶香と話をして……あのときは朝の4時くらいまで話をしていたよね?
紗耶香 そうだね。お互い眠れなかった。
和弥 そのときに同時に、小林へ行こうと決めたんです。
紗耶香 私たちには子どもが4人いるのですが、娘が保育園の年長になるのに合わせて移住しました。きっかけとしては両親が亡くなって実家が空き家になったのが大きいですが、小林市は子育てをするのに住みよい環境だと思いました。
和弥 空家の他に3,000坪の畑と田んぼがあって、山もあって、ほったらかしにしておくべきではないなと思ったんです。もちろん移住した頃は、就労支援事業所もありませんでした。最初は私だけ単身赴任という形で久留米に残って、2015年の1月にこっちに来ました。それから2015年の3月5日に法人を登記して。2015年の11月1日に宮崎県から認可をいただき、事業を始める準備が整い、11月20日にツナギィーナをオープンしました。1年の間に、移住して会社を登記してお店をつくったことになります。
何をするにもブレーキをかけて生きていた
── たった1年で……。すごい行動力ですね。
和弥 昔は、潜在意識の中で自分は何をやってもダメだからとブレーキをかけて、行動せずにいました。でも「本当にそうなのか?」と疑問を持ち始めた中で、きっかけになったのが義兄の死なんです。やっぱ人生っちゅうのは1回しかない。私自身も病気になるんじゃないかってくらい考え抜いた結果、1回しかない人生、自分の思うようにやってみようと思って、今の事業を始めることに決めたんです。
和弥 義兄の死によって本当にいろいろ考えた末に、自分が福祉で、世の中や小林市に対して恩返しできないものかと思ったんです。「やってやる!」「みんな、見とれよ!」みたいな気持ちで、なにくそ根性で事業計画書をバーッと書きました。
貧乏くらいしてもいいから、楽しいことを考えたい
紗耶香 自分を殺して、自分にブレーキをかけて生活している主人を見ているよりも、いろんな想像を掻き立てながら活き活きと話し合っているときのほうが、やっぱりリアルだし、私も楽しかったですね。
事業計画を立てていた頃は「借金はしてもいいよ」と言っていました。貧乏はしてもいいんです。自分の気持ちと違うこと、嫌だなと思う仕事をするのはやめましょう、と言いました。
── 紗耶香さんが「貧乏はしてもいいよ」と言えるほどの覚悟を決められるのは、なぜなのでしょうか。
紗耶香 人生は、一度きりです。両親と兄の死を経験した頃、私は出産時期でした。ひとの生と死、生き様、そういうのをいろいろ見てきました。だから、一生懸命に生きないと、すごくもったいないって思うようになって。
この生活がいつまで続くんだろうとネガティブに考えていた時期もあるんです。そのときは子どもがまだちっちゃいので、子育てを楽しもうと思えば楽しめるんだけど、このひとに話を振っても何も返ってこない。子どもを育てる喜びを一緒に味わいたいのに、何を言ってもぼーっとしてる。私はなんでここにいるんだろうと思っていました。
そうやっていろんな時期を越えてきたからこそ、楽しいことを考えたりとか、生きようとする姿を見ていたほうが、私としても嬉しいんです。
出の山公園に恩返ししたい
── 今後の目標はありますか?
和弥 ゆくゆくは、ツナギィーナがある、この出の山公園に恩返しできたらいいなと思います。年配の方に聞くと、30年前は小林での観光と言えばこの出の山だったそうです。昼間は鳥の鳴き声が美しくて、夜は物音ひとつないくらい静かです。この場所が、県外や関東の方に観光地として選んでもらえる場所になれば、自分たちの事業を継続していくためにもなりますよね。
紗耶香 亡くなった兄は引きこもりだったんです。引きこもりもそうだし、社会に出たいのに参画できないひとにとっての、社会参加のきっかけをつくりたい。そのためには「あのお店いいよ、美味しいんだよ」と好きになってもらうことと同時に、障がいがあっても働ける場所なんだと知ってもらうことが重要なので、周知活動をがんばりたいですね。
私たちが小さい頃は、すごく都会が遠かったんです。でも今はそういう時代じゃない。田舎でもちょっと車を走らせれば都会に行けるし、外国にだって安く早く行けるようになりました。だからこそ子どもたちにも、広くものを見られる、世界に目を向けられる子になってもらいたい。自分で責任を持って人生を選んでほしいんです。
和弥 人生とかビジネスに、近道はないと思う。人生は苦労した分だけ見返りが大きいと思います。
紗耶香 兄の死の、前後の3、4年の間に、子どもも3人生まれましたしね。遠回りだったけどこの道で良かったんだね、だって大切なことに気づけたもんって、今は思えるんです。
(この記事は、宮崎県小林市と協働で製作する記事広告コンテンツです)
お話をうかがったひと
橋本 和弥(はしもと かずや)
1981年3月19日生まれ。福岡県久留米市出身。TSUNAGU株式会社、代表取締役。職業指導員。
橋本 紗耶香(はしもと さやか)
1978年7月24日生まれ。宮崎県小林市出身。TSUNAGU株式会社、取締役。職業指導員。