変わらないもの、そして老若男女から親しまれる和洋折衷の代表格として取り上げてきた、あんぱん。東京だけでも数え切れないパン屋さんに、まだまだ美味しいあんぱんが眠っています。
何店舗かの方にお話をうかがうたび、名前が出てくるのは「銀座木村家」。あんぱんの歴史を追いかけると、それは木村屋、ひいては日本の歴史を除いて語ることはできないものでした。
木村屋の軌跡をたどりながら、あんことパンの出会いの物語を、今一度めくってみたいと思います。
パン食ブーム到来
時は安土桃山時代(1573年~1603年)。パンはポルトガルの宣教師によって日本に伝えられました。ですが当時のパンは固くてパサパサ。まるでビスケットのような食感で、決して甘くはありません。お米や玄米を主食としていた日本人にとっては、あまり好みではありませんでした。
明治元年(1868年)。文明開化の明言のもとに、江戸時代から明治へ移り変わった頃、日本人の食生活も大きく変わっていきました。
東京某所。木村屋の初代となる若き木村安兵衛は、明治2年(1869年)にパン屋・文英堂を開店させました。武士の時代が終わり、新しい生き方を探るなかで、パン屋は彼にとって大きなチャレンジでした。
また、この頃はパン食がブームとなり、立て続けにパン屋がオープンしました。西洋に追いつけ追い越せとはやっていた、明治という時代を象徴している出来事のひとつと言えそうです。……ですが、この激戦の時代を切り抜け、平成の現在でも残っているのは木村屋と精養軒、そして三河屋系列だけだといいます。
明治天皇のおめがねにかなった桜あんぱん
明治3年(1870年)に入ると、安兵衛は銀座に店舗を移動させ、屋号を「木村屋」に改めました。あんぱん自体が木村屋の店舗に並ぶようになったのは明治7年。そこに着目したのが、山岡鉄舟でした。
山岡鉄舟。彼は木村屋、そしてあんぱんの歴史を語る上でなくてはならない存在です。明治天皇とあんぱんを結びつける役割を果たした人物だからです。実際、彼は明治維新に倒幕派と幕府をつなぐ際に尽力した人物で、明治時代に入ってからは天皇に仕える役人でした。
そんなお役人が、銀座のパン屋の木村屋のあんぱんを目に留め、その美味しさに驚愕。「これ、うまいじゃないか! 陛下に召し上がっていただこう!」と安兵衛に持ちかけたのです。
当時出回っていたイースト菌を使ったパンではなく、米と水、そして麹(こうじ)からできた酒種をつかった生地に、和菓子になくてはならない存在だったあんこが包まれている、その斬新さと美味しさ。安兵衛たちの愚直なパンへの探究心と山岡鉄舟の手助けもあり、明治8年(1875年)4月4日に木村屋の桜あんぱんが明治天皇に献上されました。
これが「あんぱん」ヒストリーにおいて、最も重要な瞬間です。明治天皇のお気に召したことから、あんぱんは「あんぱん」として広く人々に認知されることになりました。
銀座から全国へ
あんぱんが手頃なものとして一般庶民にも親しまれるようになったのは、それからのことです。更に、あんぱんが全国のパン屋へ広まっていったのは、木村屋三代目の木村儀四郎のおかげと言っても過言ではないようです。
この儀四郎、実は10年以上音信不通だったにも関わらず、突然ひょっこり木村屋に帰ってきたという謎の人物。その空白の10年の間に、日本各地を巡りながらパン作りを勉強していたようで、木村屋とあんぱんの噂は、儀四郎の足跡を追うようにまたたくまに全国へ広まっていきました。
儀四郎の社長就任と、木村屋の成長は、あんぱんを介して全国のパン屋を盛り上げ、そしてあんぱんの広がりにも拍車をかけたのです。
これからもだいすき「あんぱん」
あんぱんは、こうした努力と偶然の重なり合いで、手軽に食べられるもののひとつとなりました。あんぱんが今でも細く長く続いているのは、素材やこうした成り立ちはもちろん、常に時代に即して変わってきた柔軟性のおかげかもしれません。
もし、心がからっぽになったとき、食欲が出ないとき、おいしいものが食べたくなったとき、あんぱんを思い出してみてください。背伸びをせず、ただただ実直であれというシンプルなことを、再度教えてくれるはずです。
(参考資料:木村屋総本店百二十年史(非売品)|平成元年5月9日発行|発行元:株式会社木村屋総本店)