江戸から続く諸街道のうち、最も都会に近く、ゆえに通行量の多かった宿場町・品川宿(しながわしゅく)。「東海道の歴史性を活かしたまちづくり」を活動のテーマに掲げるのは、旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会です。
まちの情緒にいち早く気づき、地元に根付いたまちづくりの先駆けとして注目されている品川。その火付け役でもあり、旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会会長の堀江新三さんに、1980年後半から約30年活動する品川宿のまちづくりについて、教えていただきました。
江戸時代から変わらない東海道を守るまち
── 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会(以下、まちづくり協議会)の設立が昭和63年、約30年以上も続いていることになります。設立のきっかけを教えていただけますか?
堀江新三(以下、堀江) 設立のきっかけは、「東海道五十三次シンポジウム」ですね。滋賀県甲賀市にある、東海道五十三次の49番目の宿場「土山宿」の若い子たちが、「江戸時代から続く東海道の宿場やまちを大事にしよう」と、それぞれの宿場町に声をかける活動をしていました。
その集まりに僕の先輩たちが呼ばれたことがきっかけで、まちづくり協議会を設立しました。
── まちづくり協議会の設立後、どんなふうに活動がスタートしたのでしょうか。
堀江 最初は何をしたらいいか分からなかったから、自分たちのまちを知ることからスタートしましたね(笑)。東海道の歴史や文化を勉強したり、お寺やお年寄りに品川宿の歴史や文化について教えてもらいました。
── その後、当時の品川の広報誌『グラフしながわ』の編集長だった佐山吉孝さんに、第3者的視点からまちづくりの方向性を決めるアドバイスをもらっていたと伺っています。
堀江 佐山さんが来てくれて、「まちをこうしよう!」と活動内容が目に見えるようになり、話し合いの末、平成7年に行政とまちが何をするかを具体的に明記した「東海道品川宿周辺まちづくり計画書」をつくりました。これからはこの計画書にあることを具体化していこう、ということで固まりました。
その施策のうちのひとつに、品川宿の商店街を石畳にする構想もありました。
── なぜ石畳にしようという案が出たのでしょうか。
堀江 車の交通量が増えたことによって、歩道が狭くて、歩く人が不便という問題がありました。そこで「歩行者のためのみち」として歩道空間がわかりやすく、時間とともに愛着と風情をかもしだす石畳舗装を行政に提案したんです。1996年(平成8年)に青物横丁で初めての石畳整備がはじまり、平成8年から約10年かけて完成させました。同じ年には、まちづくり協議会の拠点である「品川交流館」もオープンしました。
── 交流館がまちに与える影響はありましたか?
堀江 地域内で大きな役割を果たしていると思いますよ。品川交流館は「3つの場づくり」をテーマを掲げています。ひとつは、このまちに散策や観光で訪れる方々、このまちの周辺で働いている方々、そしてこのまちに移り住んでくる方々が地域の人々と交流できる場であること。ふたつ目に、地域活動やまちづくりに取り組んでいる人々が、それぞれ交流しあい情報交換ができる場にすること。そして最後は、時代を担うこどもたちや、このまちと新しい関わりを持とうとする人たちに、品川宿の歴史や文化に触れ、楽しみや理解を深める場を提供することです。
品川宿交流館ができてからは、まちづくり協議会の竹中くんなどをはじめ、若い子がまちに来てくれるようになりました。品川宿の窓口となる品川宿交流館は、新しいまちの繋がりを生む接着剤になっていますね。
本当のまちづくりは失敗から始まった
── 活動を進めるなかで、何かターニングポイントはありましたか?
堀江 品川の東西で開催するイベントを企画したときかな。商店街のイベント予算って100〜200万くらいなのに、約10倍を超すような予算を付けたイベントが台風で中止になってしまったんです。
── ……つまり、大失敗してしまったと。
堀江 結果的にイベントの主催側の責任になってしまい、地元の人に会わせる顔がなくて、まちを歩けなくなっちゃってね(笑)。僕と同じように、「失敗で終わらせてしまうと、このまちで暮らせない」という危機感が、まちづくり協議会のメンバーたちのなかにありました。でも、ある若い子が「これは失敗じゃないよ」と言ったんですよ。
── 失敗じゃない?
堀江 「今まで話したこともないまちのメンバーと、毎週会って喋るようになったじゃないか」って。
そもそも江戸時代から、品川宿の中央に通る目黒川を隔てて、北品川と南品川はいい意味で対抗意識があってね。これは今でも、解消できていないんですよ。
土地が培ってきた文化がある中で両者が話しても、みんな疑心暗鬼だし、イベントの企画を立てても意見がまとまらないこともありました。それまでもまちづくり協議会という団体自体ははありましたけど、その失敗があってはじめて、地道な活動から町内の付き合いも含めてやっていこうと本気になって活動をスタートできた気がします。だから、イベントの失敗は大きなターニングポイントだと言えますね。
品川っ子独自のアイデンティティを持ち続けたい
── 品川宿のいちばんの魅力は、やはり「道」でしょうか?
堀江 仰るとおりです。歌川広重の浮世絵に描かれた江戸時代と変わらない「道幅」を保っています。
ここは東海道なので、実際に京都から歩いてくる人や、京都まで歩いて行く人もいるんですよ。今でもわざわざ街道を好んで歩く人たちが、じつはたくさんいます。
── 「東海道」「宿場町」がキーワードになり、新しいことをやりたい人を呼び寄せているんですね。堀江さんの懐の広さゆえ、でもありそうです。
堀江 そうですかねえ(笑)。
── 「Bamba Hotel」をつくった渡邊崇志さんは、ゲストハウス業を始めたいならまず堀江さんの所へ行くべきと勧められたそうです。
堀江 ……まあ、僕も困っていそうな若者は放っておけないんですよね。「このまちでゲストハウスをやりたい」と、なんのあてもないのにプランだけを持ってきた渡邊くんや、「ここで人力車を走らせたい」と言って、自分で人力車をつくった「品川人力車」の佐藤亮太くんとかね。
子育て支援をしている「おばちゃんち」など、いろいろなテーマを持った人たちが集まってくる街なんですよ。
── 堀江さんを中心に広がるコミュニティの存在は、一般的な人が抱いているであろう品川のイメージとは、まったく違う情緒がありますね。
堀江 ここは宿場町だから、人を迎え入れ、人の出入りがあって成立するまちなんです。そういった人を受け入れるDNAを持っているのだと思いますよ。品川宿はもともと江戸ではありません。だから今でも東京に飲み込まれたくない、「品川っ子としての気質、独自のアイデンティティを持ち続けたい」と思っています。
お話をうかがった人
堀江 新三(ほりえ しんぞう)
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会会長であり、1800年頃から続く老舗スーパー平野屋社長、青物横丁商店街振興組合理事長、諏訪町会会長、東京商工会議所品川支部副会長などいくつもの顔を持つまちの重鎮の一人。若かりし頃よりバックパッカーとして旅を重ね多くの武勇伝を持つことから、現在でも若手からの信望が厚い。
- 品川区- しながわWEB映像館
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