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【東京都品川宿】縁を手繰り寄せた先に、地元があった。「地元びいき」和田富士子

東海道五十三次の宿場町【東京都品川宿】特集、はじめます。

旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会(以下、まちづくり協議会)の拠点「品川宿交流館」の2階に、「地元びいき」という名のポータルサイトを運営する女性がいます。ふわりと笑う笑顔が素敵な女性の名は、和田富士子(以下、和田)さん。彼女の出身はここ、品川。幼いころは、地元を出たくて仕方がなく、そしてその想いのまま一時は地元どころか日本を出て、海外で暮らしたりもしたそうです。

けれど、和田さんは今、たくさんの経験を経て地元である品川に戻り、そしてまちづくりに携わっています。「育んでもらった地元への恩返しとして、そして今、紡がれた縁として、まちの広報部となることが私の役割」。品川というまちをこよなく愛す、和田さんの想いを聞きました。

待ち合わせは、「北品川橋」の上で

品川に拠点を構える「地元びいき」の和田富士子さん

── なぜ、北品川橋を取材の待ち合わせ場所に?

和田 この場所は、このまちを象徴する場所だと思っています。じつは今回、この【東京都品川宿】の特集企画は、私と『灯台もと暮らし』編集部さんとの出会いから始まりましたよね。品川というまちを舞台に、さまざまな立場で活動する人々を取材してもらうことになったときから、ぜひ北品川橋からの景色を見て欲しいと思っていたんです。

ここは、東海道五十三次の第一宿として栄えた頃から、ずっと変わらずに水辺が残っている場所。向こう側には、明治時代の建物、高度経済成長期の頃の建物、バブル期の鉄鋼マンション、そして一番奥には新幹線の走る「JR品川駅」周辺の再開発ビル群が見えます。

今、私たちが立っているこの「北品川橋」は大正末期の建造物です。時代ごとのレイヤーが、まるでひとつの写真の中に納められたように見えませんか? まさにこのまちに息づく人の層とオーバーラップするんです。

北品川の景色

和田 このまちのおもしろいところは、一番後ろに見える高層ビル群のディベロッパーさんをはじめ、新しく移り暮らす若い家族など、多様な人たちが「まちづくり協議会」に入ってくれること

ただ闇雲に開発をするのではなく、「品川宿」に根付く歴史や文化に裏付けられた文脈を理解し、その上で、どうまちづくりに関わっていくかということを、皆さん大事にしてくれています。休みの日になると旧東海道沿いをまち歩きする人もかなり多いんですよ。

「宿場は人が出入りしてこそ成り立つ場所」。「まちづくり協議会」会長の堀江さんはいつもそう言います。品川の「まちづくり」は、そのスピリッツを受け継ぐことなんだと私は思っています。この橋からの景色を見ていると、あの層の端々から「これからもしっかりな!」という声が聞こえてくるような気がしちゃうんですよね。

── なるほど。品川広しと言えども、多くの人が交わるまちになっているのですね。

和田 私にとっては、この場所がゼロ地点かも知れません。

でも、じつは恥ずかしながら、このまちの魅力に気が付いたのは、ここ数年のこと。地元の私は中学校、高校と毎日この「北品川橋」を通っていたはずなのに、です。おもしろいですよね。現在「地元びいき」なんて名前のサイトを運営しているのに、立ち上げた時は自分の地元のことなんて、まるっきり頭になかったんですから(笑)。

── そうなんですか?

和田 はい。自分の地元「品川宿」に意識が向いたのは、つい最近。大学卒業以降、品川とは付かず離れずの距離を保っていましたが、地元に戻ろうなんて気持ちになったのは、ずっとずっとあとのことです。

小さい頃から品川を出たかった

── 和田さんが品川に戻ってくるまでの経緯を、少し教えていただけませんか?

和田 生まれも育ちも品川。中学生くらいの頃からなぜかドメスティックなものが嫌いで、品川どころか日本を出たくて、とにかく世界をこの目で見たいと思っていました。大学卒業後もその夢は捨てきれず、編集の仕事をするかたわら、ずっと海外に行くチャンスを伺っていて。

30代でアメリカに行く機会を得て、2年間ほど滞在しました。最初は海外就職を志していたはずなのに、いろいろとキツい経験の中でその意識は薄れていって……結局最後は意地だけで渡航しました(苦笑)。

品川に拠点を構える「地元びいき」の和田富士子さん

── 帰国したのは、なぜですか?

和田 意地になって海外で暮らすことに意味を見いださなくなったこと、あとは新しいチャレンジをする時期かなと思ったから。帰国後は縁あって品川に本社を置く企業で働くことになりました。

── その頃から品川のまちづくりに興味を?

和田 いえ、その頃もまだ自分が地元のまちづくりに関わることになるとは、思ってもいませんでした。

── きっかけはなんだったのでしょう?

和田 私は、東京生まれ東京育ちで、両親の故郷ともあまり縁がなく、夏休みに「田舎」という場所へ行っている友達がとても羨ましかったんです。ずっと日本の外にばかり目を向けていた時期を経て、アメリカから帰国した時は日本に対する望郷の念がとても深まりました。

もしかしたら、それが「地元びいき」の起点となったのかもしれません。誰にでも「地元」はある。誰もが自分の「地元」をひいきするようになったら、どこもかしこも日本中いいとこばっかになるじゃん! みたいなね。自分の中の感覚が少し組み変わったんでしょうね。離れてみて帰国して、初めて地に足が着く安定感を知ったというか。

それに加えて、偶然田植えを手伝わせてもらう機会もありました。素足を田んぼの中に埋めた瞬間、なんとも言えない感覚にも襲われて……。縄文時代から脈々と続く田植えをすることで「足の裏が縄文人とくっついた!」とタイムスリップしたような感じ(笑)。純粋に東京以外の暮らし、「ここにないもの」、つまり田舎への興味が高まりました。

品川に拠点を構える「地元びいき」の和田富士子さん

和田 新しい世界や価値観に惹かれると同時に、今まで自分が見てこなかった分野で頑張っている人たちの存在にも気がついて、自然と彼ら彼女らを応援したいなと思うように。編集という仕事に立ち戻り、「地元」に根付いたところで活動する人たちのことを掘り起こし、情報発信していこうと思い、2013年9月に「地元びいき」をオープンさせることになりました。

── 和田さんご自身が、東京を離れて地域移住するという選択肢はなかったのでしょうか?

和田 なかったですねぇ。それよりも、東京にいながらにして、彼ら彼女らにとっての「拠点」「視点」「支店」になろうというコンセプトの方が強かったです。

広い世界を見たあとに、地元の存在に気が付いて

── 「まちづくり協議会」との出会いはいつになりますか?

和田 「地元びいき」を始めた翌月、2013年10月のことです。メディア運営が中心ではなく、リアルの場できちんと人とつながりが持てる場所、拠点みたいなものを持ちたいと思うようになり、どこにしようかと考えた時、ふと思い浮かんだのが地元、品川宿でした。

── そこでやっと、地元が出てくるんですね。

和田 改めて振り返ってみると、私は全然地元のことを知らなかったんです。「宿場町だったらしい」という乏しい情報量から、「昔から人が頻繁に行き来していたであろう商店街なら、人の受け入れにも寛容なのかな」と想像するくらいのレベルで。

そこで商店街で店を営む地元の友人や先輩に、「品川宿に拠点を設けたいんだけれど、どうすればいい?」と相談したら、「まちづくり協議会」のことを教えてくれました。そこからは人のつながりを紐解くように、堀江さんや竹中くん、まちづくりコーディネーターの佐山さん、宿場JAPANの渡邉くんや、KAIDO books & coffeeの佐藤くんのようにこのまちで事業をつくる若者、「おばちゃんち」の幾島さん、加えて景観に携る建築家の方々、目黒川を体張って泳いじゃう人……など、とにかく沢山の人の顔が見えてきて。ただただびっくりの連続でした。

そうして、あっという間に地元の魅力に引き込まれていったんです。品川宿交流館や「まちづくり協議会」という受け皿がなければ、決して辿り着くことはなかったと思います。

目黒川泳ぎ隊
かつてのキレイな目黒川に戻すため立ち上がった河川美化活動「目黒川泳ぎ隊」
新しく移り住んできた人たちによる品川宿の新たなお祭り「しながわ運河まつり」
新しく移り住んできた人たちによる品川宿の新たなお祭り「しながわ運河まつり」
小学校と連携し子供たちに品川宿を知ってもらう「しながわっ子プロジェクト」
小学校と連携し子供たちに品川宿を知ってもらう「しながわっ子プロジェクト」

── いろいろな人に出会う中で、和田さんの想いも変わっていったのですね。

和田 そうだと思います。「まちづくり協議会」に通い、さまざまな立場でまちに関わる方々の話を聞くにつれて、まちの歴史、今、そして変化みたいなものが見えてきて、これから地元ってどうなっていくのだろう? 私はどんな立ち位置で未来に関われるんだろう? などと考えるようになり、気がついたらどっぷりと品川宿に(笑)。今はライフワークと仕事の線引きもまったくなく、楽しみながら毎日を過ごしています。

脈々と受け継がれてきたまちの営みを、マイペースに続けていこう

「品川宿交流館」の外観
和田さんと一緒に働く、「品川宿交流館」で駄菓子屋を営む佐藤さん

和田 今は、品川宿交流館の2階に間借りをして、「地元びいき」の運営をしながら、「まちの広報部」役をさせてもらっています。品川宿の歴史からみれば私は新しく、またまちのど真ん中に暮らしている住民でもありません。

それでも今こうやってまちのど真ん中で、「品川宿LOVE」な人たちとまちの未来を考えられるようになったのは「品川宿交流館」そして「まちづくり協議会」の存在があったから。この「きっかけ」をもっと伝播させたいと思って、堀江さんにお願いして「まちの広報部」を新たな事業として立ち上げさせてもらったんです。

やっぱり地元を拠点に暮らす、活動するって、いいものだなって思います。仲間が多いので自ずとやりたいことが溢れてきて、とにかく日々楽しいし、汗かくことも骨折ることも地元のことならやり切れる。結果論ですけどね(笑)。品川宿には、個性的なプレイヤーや、行き交う人のレイヤーの多さ、どこか漂う「ゆるさ」など、たくさんの魅力があります。

たまには品川に遊びに来てください。「どなたもウェルカム、どんな提案もオッケー、全てオープン!」。これが「まちづくり協議会」のモットー。ここは、今も昔も人が行き交う宿場町ですから。

お話をうかがったひと

和田 富士子(わだ ふじこ)
「地元びいき」代表として、ヒトと情報を繋ぐ場づくりと地域コーディネーターを務める。現在、トヨタ財団助成を受け、東京の森資源を考え、未来像を提案する「東京の村人」プロジェクトを進行中。その一方で地元「品川宿」で広報活動、イベント企画、周辺住民間のコミュニティづくりなどに携る。旧東海道、品川宿という歴史ある地元をこれから未来へ向けてどう繋いでいくか日々勉強中!

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伊佐 知美

旅するエッセイスト、フォトグラファー。1986年生まれ、新潟県出身。世界中を旅しながら取材・執筆・撮影をしています。→ さらに詳しく見る

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【東京都品川宿】築70年の古民家を改装したゲストハウス「Bamba Hotel」は、まちのVIPルーム

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