からむし引きがひと段落する8月のお盆開け。私(筆者・中條)は、久しぶりに「工房toarucafe(以下、トアルカフェ)」を訪れました。

トアルカフェは、昭和村のアイコンとも呼べる旧喰丸小学校のすぐ傍にあります。古民家を活かして1階部分をギャラリースペース、2階部分をカフェとして、現在は土日を中心に営業しています。

福島県大沼郡昭和村
旧喰丸小学校。木造2階建てで、映画『ハーメルン』の舞台にもなった。現在は、改修工事中

私はこの村を訪ねるたびに、トアルカフェに立ち寄ってきました。直接の目的は、昼食やお茶のためですが、オーダーしてから待つあいだの独特な静けさが心地よくて。

お店の店主は齋藤環(以下、環)さん。彼女もまた、13年前に「からむし織体験生」としてこの村を訪れた「織姫さん」のひとりです。

齋藤環さん

齋藤環さん(織姫11期生)

神奈川県真鶴町出身。畑や保存食づくりをする祖父母の姿が原体験にあった。大人になり体調を崩して仕事を離れた際、昭和村の「からむし織体験生」のことを知り、その足で昭和村を訪れる。2か月後(2004.5)には織姫体験生として昭和村で暮らし始め、2011年よりNPO事業の一環として、「工房toarucafe」を始める。現在は軽食とドリンク中心に土日に営業を行い、そのほかはものづくりの時間に当てている。

からむしのことを話したり、ひとの集える場にしたいと思い、はじめたトアルカフェ

「からむし引き、お疲れさまでした。カフェは今日から営業再開ですか?」お店についてほどなく、私は店主の環(たまき)さんに尋ねてみました。

「先週も、土日は一応開けていました」

「もうひとりの織姫さんと一緒にですか?」と、私は何気なく問いを重ねました。

「彼女はもうやめたんですよ。やめたというか、もともとカフェを一緒にやりながら、ほかの仕事もしていて、そっちに戻ったという感じ。いまは私ひとりでお店をやっているので、食事のメニューは軽食だけに変えたりしながら」。環さんはさらりと言いました。

私はすこし驚いて、ここで食べた定食のことを懐かしく思い出しました。「いつもすごく手の込んだ、昭和村で採れた野菜やお米、味噌などを使った自然食を出してくれましたよね」

「もともと、ものづくりをしたくて工房を兼ねるかたちでトアルカフェを始めたんですよ。空いた時間で仕事もしなきゃと思っていたし、からむしのことをゆっくり話せる、ひとが集う場所があったらいいなぁという思いもあって。当初は募金制で、飲み物メインのカフェから始めてみたんです。そのうち、村のひとから『きちんとお金をとって、食事を出したらいいんじゃないか』と勧められて。

昭和村の食べ物はなんでも美味しいし、美味しいものを食べるとみんな幸せになれるでしょ。それもいいかなぁと思って、「喰丸食堂」として食事のメニューも提供するようになりました。でもやってみるとだんだん食堂が中心になっていって、気がつくと、ものづくりの方が全然できていなかった」

「食事を出すのをやめたのは、今年に入ってからですか?」

「そうですね。食堂としての営業は5月の連休まで。一緒にやっていた彼女とも、冬のあいだに話し合って決めたんですよ。タイミング的にはお互いにちょうどよかったんだよね」と、さっぱりとした表情で環さんは言いました。

「そうすると、これからはカフェとして、営業を続けていくのでしょうか?」

「うーん、どうなるかなぁ(笑)。私もコロコロ変わるし、周りも変わっていくから。どうなるかはまだ、わからないよね——」

環さんのスタンスは何事にも「つかず離れず」といったところもあって。深く根を張ることが是とされるこの村とはどこか対極の浮遊感をまとっています。

けれどその一方で、このカフェに漂う静けさは、なによりも環さんの持つ控えめな佇まいによるものです。この村を包み込む空気にすっと溶け込んでいるような。それは気配に近いもの。表立ってなにかを変えようと動いたりするでもなく、目の前の自然とともに、只々そこに暮らし続ける。環さんには、変わらずに在り続ける昭和村によく似た安心感もあります。

齋藤環さん服装から何から全部。都会の暮らしが、全然肌に合わなかった

神奈川県真鶴町出身の環さんは、大のおばあちゃん子でした。幼少時代、飼っていたニワトリの卵を採りに行くのは、環さんの日課だったそうです。

「うちの祖父母が畑もつくって、ニワトリもいっぱい飼っていて。保存食は、いつもおばあちゃんがつくっていたし、おじいちゃんはまだ私が生まれる前、新潟で炭焼きをしていたみたいで。そういうところに、幼少期から高校生くらいまで一緒にいたんです。私はいつも寝る前に、実家の隣にある祖父母の家に行き、おばあちゃんの隣で寝ていました。中学生くらいまでは、そんな感じだったかも」

その後環さんは、布や染織への関心から、服飾の専門学校に進学しました。そこで気づいたことは、自分のつくりたいように服をつくることと、それを生業にするのは違うということ。組織に所属することや、誰かに決められたものを「つくり続ける」ことには向かないと感じ、卒業後は事務の仕事に就きました。けれど、会社に馴染むことはできなかったと、当時をふり返ります。

「たぶん私には、都会の生活そのものが合わなかったんですよ。会社にも、精神的に全然合わないと感じていました。服装からなにからぜんぶ。なんで化粧しなきゃいけないんだろうとか、気がつくとしんどくなっていて、体調を崩してしまったんです」

自分の居場所を見つけられない生活のなかで、環さんの進む道を照らしてくれた、ひとりの上司がいました。おじいちゃんほどに年齢の離れたそのひとの前では、気持ちを許していろんな話ができたのだそう。

「大好きでしたね、おじいちゃんのようなその上司のことは。そのひとに、機織りをして生活していきたいこともよく相談をしていて、彼が昭和村を見つけてきてくれました。私が体調を崩して会社をやめてしまった後に、ラジオで昭和村の「からむし織体験生」のことを聞いて、『環さんが好きそうだから』と連絡をくれたんです。もうほんとうに、私の恩人です」

その方から話を聞いた環さんは、昭和村を訪ねることをすぐに決心。2004年、まだまだ雪が残る3月のことでした。

福島県大沼郡昭和村

環さんは、日帰りでの昭和村訪問を決行しました。

体験生の概要には、からむし畑も保存食づくりも、機織りの体験もできると書いてありました。そしてそのぜんぶがほんとうに私のやりたいことだった。『あぁ、もうこれしかない!』と思えるものに出会えたことがすごく嬉しかったのを覚えています。だから面接を受けたときも、もう落ちても後悔ないくらいの勢いでアピールしたんですよね。自己PRとかすごく苦手なのに。当時の私はどうしても行きたかったんだろうなぁと、いまでは思います」

感情が揺さぶられ、思い立ったら考えずにまず行動。環さんは自らの直感に従って、雪深い山村で暮らし始めることになりました。

からむしだけじゃなくて、雪に埋もれている村の雰囲気がよかった

環さんが昭和村に来ることを決めたのは、「からむし」だけが理由ではなかったそうです。

「はじめて訪ねたときの村全体の雰囲気、雪に埋もれてる様子がとてもよかった。たぶんね、私がここで暮らしたいと思ったのは、からむしだけが理由じゃなかった。からむしの連続した栽培過程もそうだけど、住むことで村全体の暮らしを、実際に体験できることが魅力だったんだと思います」

福島県大沼郡昭和村

私がこれまでお話を伺った「織姫さん」たちは、みなさん直感的にこの村を訪れる印象があります。織姫さんだからというより、女性ならではの本能によるものかもしれません。その点を尋ねてみると環さんは、昭和村のおじさんとのこんなエピソードを教えてくれました。

「村のおじさんたちとの会話で、『よくこんなところに来たなぁ』って言われることが何度かありました。『男はそんなことできない。女はすごい』、『男は考えてこれがいいとならないと動けないけど、女のひとは考えずにいろんなところへぽんぽん行ってしまう。女は強いなぁ』って言うんです。私は30代を昭和村で費やしているから、憐れんでくれているのかな。『みんな若いときにこんなところに来て大変だなぁ。で、何年目になる?』っていつも確認するの。あれはなんだろうって毎回思う(笑)」

「おじさんたちは環さんと話すことでなにかを確認しているのかもしれませんね」と私が言うと、環さんも頷きながら続けました。

「うん、私もそう思う。自分たちは村を出たいと思っても、出られなかった人もいただろうし。『ここにはなんにもない』と言うから、私が村のいいところを伝えると『そうかー』って聞いてくれて。嬉しいのかもしれないよね。そうやって確かめて、また『何年だ?』って聞いて。『十何年になるよ』って答えると、そんなにいてくれて嬉しいって感じで、『こんなところのどこがいいんだ?』ってまた同じ話のくり返し(笑)」

そんなやりとりもこなすほど、いまではすっかり、村の暮らしが肌身に染みついた環さん。ですが、3年目を迎えて間もないころのこと、一度は村を出ることを考えたと言います。

「そのときはまだ、からむし畑も手伝いという立場だったので、いまほど深く関われてはいなかった。夏場にからむし引きをする以外は、当時働いていた、かすみ草畑と家の往復。『自分はなにをしに昭和村に来たんだろう』という気持ちにもなって。だから、そんな状態で暮らし続けてもなぁと思っちゃったのかな」

齋藤環さん

「それが3年目のとき。村を出ようと決めて、周りのひとにもそのことを伝えて、送別会をすることも決まっていたんです。だけど送別会の前日に、出たくないって思ってしまって。どうして出て行く必要があるんだろう? と疑問が湧いてきたんですね。自分で決めたはずなのにね。考えてみると、村での生活がイヤになったわけでもないし、ここではいろんなひとと親しく関わっていたから、からむしというより昭和村のひとと離れるのが悲しくなっちゃった。なのに私はどうして出て行くんだろうって」

そうして、予定されていた送別会は飲み会に変更。後日、村を出るのをやめたことを村のひとたちに報告すると「『バカバカ』って言われたけど、でも特になにかが変わることもなく」。

それから数年後、手伝っていた畑のおじいちゃんは引退されて、その畑を引き継ぐかたちで、環さん自身がからむしの栽培を行うようになりました。村を出ようと思ったのはそのときの一度きり。それからは、「村を出ようと思うことはない」そうです。

環さんを頼って、訪ねてくる村のひとたち

環さんは村のひとと、とっても仲良しです。たえず誰彼とカフェを訪ねてきます。気にかけて電話をくれるひともいます。それはなぜだろう? と私はいつも不思議に感じていました。

「環さんって村の方と仲良しな印象があります。村のひとたちが環さんを頼ってくるというか」

「なんか、ただ話を聞いてほしいだけのときもたくさんあるんだよね(笑)。電話がかかってきて出てみると、今日はこういうひとが来たとか、朝にはこれをして、次はこれをしたって、業務報告みたいな内容だったり。私は『へえー、そうなんだ』って相槌をして、ただ聞いてます(笑)」と、そのときの様子を思い浮かべるように、環さんは楽しそうに言いました。

「そういうやり取りは、イヤじゃないんですか?」

「全然イヤにはならないかな」

「むしろ、楽しいとか、嬉しい?」

「嬉しいということはないけど、でも面白いよね。それが普通になっているから。忙しいって電話を切っても、またすぐ後にかかってきちゃうし(笑)」

齋藤環さん

日常の些細な変化も、挨拶がわりのように、その都度ほかのひととやり取りする。「すごいなぁ」と思いつつ、私は前から抱いていた感覚を、環さんに伝えてみました。

「私の勝手な印象ですが、環さんは『織姫さん』というより、村のひとにすっぽり馴染んでいる感じがします」

「村のひとに?」

「そう。おじいちゃん、おばあちゃんと一緒の空気感」

「あ、でもそうかも。いつも電話をかけてくるおばさんとかから、すぐお茶呑みに誘われたりもする(笑)。電話に出ないと怒られるしね」

私は気になって、さらに尋ねてみました。「世間話以外に、突っ込んだ話もするんですか?」

「してくるひともいますね。話しながら泣いちゃうひともいました」

村のひととのやり取りを語る環さんの表情は、ひときわ朗らかです。こちらの気持ちも自然と和んでくる。きっと村のひともこの雰囲気に誘われるように、ここに来るんだろうなぁと思いつつ、私は質問を重ねました。

「話しながら? そんなときはどうするんですか?」

「私も一緒に泣いてます(笑)。昔ばなしとか、きっといろいろ聞いてほしいんだろうね」

そんな環さんの表情を見ていると、昭和村のひとたちとの心のやり取りの一端を見たような気持ちになりました。

「親子でもなかなかない親密さですね」

「まぁそういう意味では、他人だから逆になんでも話せるのかもね。『環さんだから言うけど』みたいなこと、けっこうありますよ(笑)」

工房toaru cafe(トアル・カフェ)

電話でのやり取りのほかにも、1階のギャラリーにつくったものを置いてほしいと訪れる村のひとも多いそうです。

「つくり始めたばかりのカゴやザルを持ってきてくれるひとも多いですね。あと、『こういうものをつくりたいんだけどどう思う?』と相談されたり。まだアイディアの段階からどんなものをつくるか一緒に考えたりもします」

齋藤環さん
左手:麻の手提げ。昔の麻糸が残っているから、手提げにして欲しいと村のひとに頼まれて仕立てたもの 右手:からむしの手提げ

トアルカフェの環さんは、「来るもの拒まず」。頼られるとなんでも受け入れてくれる存在です。だからでしょうか、村のひとや私のように外から村を訪ねるひともまた、環さんのおおらかな佇まいにいつの間にか安心感を覚えてしまう。そうして気がつくとつい、「たまちゃんに聞きに訪ねてみよう」という気持ちになってしまうのかもしれません。

からむし畑は預かりもの。私にとって大切なのは「もの」以前

私はこの夏はじめて、畑の刈り取りと、自宅で「からむし引き」をする環さんを訪ねました。これまでカフェで接してきた環さんと、からむしに触れているその姿はまるで違うひとのよう。

齋藤環さん

ふと、「この土地に根を張らなきゃいけないと感じることはありますか?」と私は思い切って尋ねてみました。昭和村に通ううちに、土地への根付きということが、ここでは大事な要件とされているようにも感じていたから。

すると環さんからは、意外なほどにさっぱりとした返答がありました。

「私はそこまで根を張らなくちゃいけないとは思っていないです。ほかに動きたいと思うものが見つかれば、ぴゅって行っちゃうかもしれないし、ここにずっといるかもしれない。でも、からむしの栽培を続けているあいだは、近くにはいないとダメだよね。

じいちゃんと一緒に畑をやっているときはよかったんだけど、ひとりでやるようになってからは、問題がいろいろ起きたりもして。畑が雨で水浸しになったり、根っこがダメになったり。それでも、この畑はじいちゃんがずっと大切に守ってきたんだろうなぁって。これは私のものではない。あくまで預かっているもの。だから、大事にしなきゃと思います。

私は村で暮らすひとたちや、からむし畑を守るひとたちに惹かれているんです。それは、からむし織とか『もの』以前の話。自分で手がけるようになって、まだまだ失敗も多いけど、そのなかでいろいろ考えるのも楽しみのひとつ。畑に手をかけて、毎年の変化を感じられる過程にいとおしさを感じますね」

齋藤環さん

目の前にある、おじいちゃんから預かった畑をただ続けていくこと。それが環さんがこの村に暮らし続ける純粋な理由。

「もちろん、栽培したからむしを使って糸績みをして、布を織り上げる工程もとても好き。それはまた、栽培とはちがう面白さ。ただ、その布を使って『もの』にしようとすると、手が止まってしまうことも多いんです。からむしは布の状態がとてもいいから、そこに手を出すのは、なんだか申し訳ない気持ちになってしまうんだよね。『私にはまだ、早いのかな?』っていつも迷いながら、向き合い続けています」

工房toaru cafe(トアル・カフェ)
環さんが育てたからむしの糸を仕立てた「もの」たち

「私にとってからむしは、それ自体として大切なものだから、栽培をやめようとは思いません。それは一つの軸として、自分でできるものづくりはなんだろうって。もともと洋服をつくったりもしてきたので、からむしにとらわれすぎず、いまは自分でできることを探りながら、ものづくりを続けています」

齋藤環さん

「織姫さん」たちの、からむしとの関わり方は十人十色。素材として活かされる道を探っていくひとや、「もの」として販売することを目標に取り組むひと。からむし畑とのつながりがあるから、この村に暮らし続けるひと──。

さまざまな暮らしぶりは、からむしに秘められた可能性を、それぞれの仕方で探る試みと言えるかもしれません。

環さんもまたそんなひとり。からむしを続ければこその葛藤があるなかでも、「畑に手をかけていく日々そのものが大切でいとおしい」

そう話す彼女のひたむきな姿を見ていると、もう、言葉以前の説得力があって。ほかの誰かの判断に委ねられるものではなく、ただただそれが自分の生きがいだから。からむしを刈り取るその後ろ姿から、そんな声が聞こえてくるような気がしました。

「いま、ここ」にいるということ

福島県大沼郡昭和村

「昭和村に来るまでは、無理をして自分で舵を切って、進む方向を決めようとしたこともありました。でもいまは、ほんとうに必要なときには、向こうからやってきてくれると思っています。

自然の流れに身を置いて任せておけば、ここなら大丈夫って思うから。こんなにも自然の存在が大きいと、そもそも自分がなにをしてもどうにもならない。昭和村で暮らすようになって、すべてをあるがままに受け入れようと思えるようになりました」

齋藤環さん

私は少し迷いながら、「2011年の震災の直後、環さんは一度村を離れられたんですよね? そのときの動揺は大きかったですか?」と尋ねてみました。すると環さんは言いました。

「動揺っていうか、あのときは不思議な感じでした。とにかく生きるか死ぬか、この先どうなるかわからないと思ったし、それまでの日常が平和すぎたから。ここには私にとって、ほんとうに好きなものがあるのに、こんなに好きでもダメなのかって。そういうふうに思いながら、原発が爆発したことを知って、私たちは一度、村から避難したんです。

でも、やりたいことはここにあるから、パニックが少し落ち着いたらすぐに、昭和村に戻って来ました。やりたいことというか、ここには大切なものがいっぱいあった。

昭和村は、『からむし』だけじゃなくて、村の暮らしとか、そこで暮らす『ひと』なんですよね。私にとって大事なのは、自分が『いま、ここにいる』ということなんです。

このままいくと『途絶えていくのかなぁ』って考えることもあるけれど、ここにいて、いろんなものを見て、感じて。ここにいなければ、気がつけないことってほんとうにたくさんあるんですよ。昭和村には、残っていることがまだまだいっぱいあります。時間が許す限りは、村のひとたちのそばでこの村を感じ続けていたい」

環さんを包み込む昭和村は、たくさんの「気配」に溢れています。虫のこえや動物の足音、植物のさざめきや風の動きや雨の匂い……。

そうした自然とともに、おばあちゃんたちの働く手を見ている時間。それは例えば、里芋の皮むきをする手やミョウガを刻む手。糸績みをする手や、からむしを引く手、引いたからむしを大切に置き重ねていく手……。いつも笑みを浮かべ、手を動かすおばあちゃんたちの言葉や姿。

環さんを包み込むすべてはここにあります。だから、彼女にとって一番たいせつなのは、「私が、いまここにいること」なんだと。そして環さんは言いました。

「これから先、残るものはきっと残っていくだろうし、変わっていくこともあって当然だと思う。自分からなにかを変えようとすることはしないけど、いつでも流れに乗って、変わっていくことも、変わらないことも私は受け入れられると思うから。

ここなんだよね、きっと。からむしがある昭和村なんだよ。ほんとうに、すごいところを見つけて来ちゃったよなって。よく見つけたよね、あなたも──」

「私」が見つけたのか、「私たち」が見つけられたのか

環さんをはじめ、これまでお伝えしてきた織姫さんたちは、いずれもこの村に暮らし、からむしに関わり続ける女性たちです。

実際には、からむし織体験生に参加した「織姫さん」全員が村に残り、からむしに関わり続けるわけではありません。それぞれの事情や想いのなかで、人生の一時のあいだ。雪深いこの村の暮らしを体験し、からむしに触れて次の場所、もとの場所へと進んでいく。言ってしまえばそれは、当然のことかもしれません。

けれど「からむし」は変わりゆく時代のなかで、昭和村の土に深く根をおろし、いまなお育まれ続けています。多くの女性を呼びよせ、たくさんの可能性をほのめかせながらも、一筋縄ではいかないからむしの根。

ほんとうのところ、からむしを見つけた「私」は、からむしに見つけられた「私たち」なのかもしれません。

たくさんの可能性をたずさえて、多くの女性を引き寄せながら、「からむし」はこの村の土から生みだされ続けます。そこに手をかける人びとが途絶えずに、この風土に寄り添った暮らしが続いていく限り。

からむし

そうした暮らしが息づく昭和村を訪れる際はぜひ、トアルカフェの環さんを訪ねてみてください。

カフェの左手には築80年の木造校舎「旧喰丸小学校」があります。もう一度ひとが集う拠点として活用していくために、現在クラウドファインディングを行い、支援者を募っています。

今年もすでに、平成30年度(第25期)の「からむし織体験生『織姫・彦星』」の募集が始まっています。募集期間は10月31日まで。

  • 第25期「からむし織『織姫・彦星』体験生」募集 詳細はこちら
  • 「昭和村からむし織 糸づくり研修事業」研修生募集 詳細はこちら
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(この記事は、福島県昭和村と協働で製作する記事広告コンテンツです)

文章:中條美咲
編集:小山内彩希
写真:タクロコマ(小松﨑拓郎)、伊佐知美

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