「からむし」はこの村の土から生み出され続けます。そこに手をかける人びとが途絶えずに、この風土に寄り添った暮らしが続いていく限り──
前回のお話の最後は、このように結ばれました。
そもそもこの村で生まれ育った女性たちは、どういう気持ちで「からむし」を捉え、「からむし」に想いを寄せてきたのでしょうか。じつは私(筆者・中條)は、村の女性たちの心根にはなかなか立ち入れないと感じてきました。言うまでもなく、私自身よそ者ですし、おのずとそこにはハードルがあるようにも思われて。
そんななかで、「『からむし織』に想いを託して、長年、村のために力を尽くされている」と耳にしていたひとりの女性がいました。いつかお会いしたい。そう思いながらも気持ちの準備が整わないまま日々は過ぎて。初めてお会いできたのは、昭和村に通い始めて2年目、去年の夏のことでした。
はじめはとても緊張しました。でも、対話が深まるにしたがい、私は女性に対して、こんな印象を抱きはじめました。「この方はまるで、祈るようにお話をされている」。ひと言ひと言淡々と紡ぎ出される言葉に引き込まれるあまり、胸が熱くなり、頬にはポロポロと涙が伝っていました。「こんな方がいるんだなぁ、すごいなぁ」。しまいには、ふたりして涙を流し、私はすっかり、彼女に惚れ込んでしまったのです。
本名民子さん。それが、この女性のお名前です。昭和村で生まれ育ち、20年以上「からむし織」の発信・販売のために尽力されてきた方です。
本名 民子(ほんな たみこ)さん
昭和35年(1960)昭和村生まれ。奥会津昭和村振興公社で20年以上からむし織の製造販売に尽力している。幼少期、炭焼きをする父の姿を見て育つ。高校を卒業後、一旦は上京し就職するも、実家を継ぐため夫とともに帰郷。昭和50年代、「からむし織」で村おこしの取り組みが始まるとともに、5年間、織り子に従事。子育てを経て、平成9年(1997)、「奥会津昭和村振興公社」設立に際し、からむし織担当として協力。
本名さんが生まれたのは1960年。世の中全体が高度経済成長に邁進し、社会も暮らしも大きく変化しつつあった時代でした。当時の「からむし」についての記憶を伺ってみると、本名さんは言いました。
「戦後、からむし畑は一度、食料畑になったそうです。隣のばあちゃんの麻を引く姿は、ぼんやりと記憶に残っています。でも、村のなかでも『からむし』は、失くなりかけていました。『想い』のあるひとたちが細々と続けていただけで。私たちにとってはすでに、身近なものではなくなっていました。そんな頃ですかね、リツ姉ちゃんに会ったのは」
リツ姉ちゃんは、仙台の大学生。民俗学調査の一環で、担当教員や仲間の学生とともに、村に通いつめていたそうです。都会から来た憧れのお姉さんに会いたい一心で、 幼い本名さんは毎日のように、寄宿先に通いました。キラキラと目を輝かせながら遊びに来る少女を前に、リツ姉ちゃんは、こんな言葉を口にしました。
「昭和村のからむしは、とても大切なものだから、ぜったいに残さないといけないよ──」
その言葉はじわじわと時間をかけて、少女のなかで育っていきました。当時をふり返りながら、本名さんは言いました。
「昭和村のからむしには、いつも村の外のひとの目があり、声があった。特に女性のね。彼女たちは村のお年寄りの想いに感動されて、それを私たちに教えてくれた。織姫さんもそう。いまの私があるのは、ほんとうに彼女たちのおかげなんです」
昭和村のからむしに、本名さんの半生は捧げられてきました。その「想い」はどこをめざしているのでしょうか。
連載最後となる今回は、本名さんのお話を通して、あらためて昭和村とからむしと織姫が紡ぐ道筋をさぐっていきたいと思います。
からむし以上に「暮らし」があった
── 本名さんの幼いころの昭和村の暮らしは、どんなものだったのでしょうか。
本名 私は若いみなさんが知らないような昔の暮らしぶりから、いまに至るまでの変化を 一通り見てきた最後の世代だと思います。幼いころは玄関先にお風呂場があったんです。木桶でね、ドーンと入ると底が抜けちゃうんだよ。隙間や穴が空いたところ、水漏れができたところにはヌカを詰めていくんだけど、お湯を張ると湯船にヌカが浮かんでくるの(笑)。
本名 そのころは、道路もでこぼこの砂利道ばかり。昭和40年代に入ると、村のなかにもポツポツと自家用車が通り出したかな。中学に上がるころには、河川や道路工事が進んで、村の風景はどんどん変わっていきました。当時は、『子どもたちは村を出て学校に通い、仕事に就く方がいい。自給自足的な暮らしは自分たちだけで十分』というふうに、親たちの意識も変わっていきました。なにしろ高度経済成長、右肩上がりの発展を疑うひとなんていない時代だったから。
── 村が大きく変化した時代だったんですね。この間、みなさんのお話を伺っていくうちに、昭和村のからむしは「暮らしと結びついたもの」。この暮らしがあればこそ、からむしが残ってきたんだと思うようになりました。
本名 そうですねぇ。そういう意味では昭和村の暮らしは、外見はともかく基本的に変わっていないと思います。とにかく、昭和村は雪深いんですよ。4月の半ばすぎに、ようやく雪解けして、だんだん畑仕事や田植えがはじまる。そうしたときに、からむしはほかの作業に全然重ならないんです。ちょうど忙しくないときに、ぽつん、ぽつんと入り込んでいる。1年の四季を通して生活していくなかで、全く無駄のないかたちで、からむしをやっていけた。ほんとうにうまく成り立っていたんですよね、不思議なくらい。
── からむしのタイミングは逃せないけれど、ほかの農作業の合間にあてはめ、無駄なく上手に回っていたから、続いてきたという感じでしょうか?
本名 からむしは植物としては、それほど手がかからないんですよ。極端に言えば、5月末にからむし焼きをして、施肥(昔は人糞を使用)をし、萱(かや)囲いをすれば、夏までまるで手をかけなくても勝手に育ってくれる。もちろん夏のからむし引きの時期だけは、ほんとうに忙しい。でも、昔はいいお金になった。稼いだお金を使って油や醤油を買ったり、衣類を新調することもできたから、やりがいもあった。
お盆とかお正月には、子どもたちに新しい服を買ってあげる。だからお盆前に一生懸命引いて、お金に変えていたんでしょうね。子どもや孫のためもあって、からむしは大事にしたし、競い合って「いいものを」と手がけてきました。
── 昔は現金収入として、暮らしに欠かせない大切なものだったのですね。
本名 私が生まれる前は、村に暮らすひとの現金収入は、からむしだけだったと聞いています。あとはもう完全に自給自足。私が生まれてからは、役場や農協に「勤める」という言葉も浸透してきました。
時代が進むとともに、お金はほかから稼ぐことができるようになっていった。それでもやめなかったひとがいたのは、やっぱり「想い」があったからでしょうね。じいちゃんばあちゃんたちは、欲とか抜きで、からむしを守ってきたんだなって。
伝えていける相手がいる安心感
── 時代が変化しても、からむしを守ろうと続けてきた村のひとの「想い」があったことは大きかったんですね。
本名 平成6年(1994)に昭和村で「からむし織体験生事業」(以下、織姫事業)が始まると、全国から若いひとたちが次々に集まりました。村のじいちゃんばあちゃんたちには、「からむしは自分たちの時代で終わりだろう」という諦めというか覚悟もあったでしょう。けれど、いまは自分たちがやってきたことが、織姫さんたちにこんなにも喜ばれて、認められて「よかった」と感じていると思います。
── 実際、織姫さんたちが引き継ぎ、いまにつながっている畑も多いと伺います。村のお年寄りたちのなかには、からむしへの想いや栽培技術のすべてを彼女たちに継承し、亡くなられた方もいらっしゃると伺いました。そしていまでは、元織姫のおふたりが「織姫指導員」として、技術の継承をする立場となられている。24年間の継続は「すごいなぁ」と、改めて思いました。
本名 織姫事業が始まった当初、村のひとの多くは、織姫の存在が村にどんな貢献をもたらしてくれるのかよくわからず、半信半疑だったと思います。けれど、彼女たちの真剣な姿を見ているうちに、徐々に信頼へと変わっていった。「あぁ今度はこの子がやってくれるだろう。じゃあ俺も、もうちょっとがんばってみっかなぁ」って。いまでもじいちゃんばあちゃんたちが頑張っているのは、織姫さんたちがそばにいてくれたからですよね。
── 確実に伝えていける相手がいる安心感は、それまでとは全く違う感覚なのでしょうね。
本名 いまとなっては、じいちゃんばあちゃんの下の世代で、からむしを継いでいるのは実質的に織姫さんだけなんですよ。若いひとでも60代まで……。そのあとの世代はプツッと途切れてしまって。今後村で「からむし」を継げるひとは、現状では育っていないんです。
なんていうんだろうねぇ。もちろん織姫さんたちが継いでくれたことは、ほんとうにありがたい。彼女たちは、村のひとの姿を目にして、なによりもその想いに動かされて、からむしに励んできたと思うんですよ。だからこそ、織姫さんたちに託された想いを、こんどは地元のひとたちも頑張って引き継いでいかないと。そうでなくちゃ「昭和村のからむしなんだ」って、よその人に説得できないじゃないですか。
これから先、織姫さんたちの姿を見て、外から訪れるひともいるかもしれない。それも素晴らしいことだけれど、せめて村の新しい世代のなかからひとりでも、この想いを受け継ぐひとが出てきてほしい。それがわたしの願いです。
ひとの気持ちに触れるから、素直になれる
── 織姫さんたちは生活の細やかな部分でも、おじいさんおばあさんへ「想い」を尽くされているように感じます。
本名 そうですね。いつも「ばあ元気か、じい元気かぁ」って彼女たちが気にかけてくれる。私は時折、「羨ましいなぁ」と思って、織姫さんにやきもち妬くくらいですよ(笑)。私たちでもこんなに懐の深くまで入れないところを、彼女たちがしてくれていると思うと、「よかったなぁ。ありがたいなぁ」って。
── どうしてそこまでできるのでしょうか。
本名 以前、ある織姫さんに「こんな村さ来てくれてありがとな」と伝えたら、「昭和村に来て、村のひとと接しながら、これまで知らなかった自分を発見できて感謝してる。いままでの自分よりもいまの自分の方が好きだ」って。ふたりで泣き泣きしゃべったことがありました(笑)。
── みんな、すぐ泣いちゃいますよね(笑)。それに、昭和村で「全く違う自分を発見できる」という感覚、私もとてもわかります。
本名 そうそう、すぐね。なんていうか、ひとの気持ちに触れられるのかな。ここでは素直に声もかけられるし、「おはよう」って返せば村のひとも喜ぶ。そういう積み重ねなんだよね。織姫さんはみんないい子たちばかり。これまで誰ひとりとして生意気に見えたことはなかった。昭和村にいると素直になれるんだろうなぁって。それはこの村の、じいちゃんばあちゃんたちの力ですよ。
── 村のお年寄りの姿を見ていたら、なかなか生意気にはなれないですね。
本名 そうでしょう(笑) 。突っ張っていられないよね。織姫の先生をされている齋藤トキイさんが、彼女たちに言うんですよ。「村のひとがなにかくれると言ったら、遠慮なんかしちゃダメだ」と。 「とにかく『ありがとさん』と言って、ちゃんともらいなさい」。そういうふうに些細なようだけど、すごく大事なことを織姫さんたちは受け継いでいくんだよね。
からむし織と「ゆずりは」田中陽子さんとの出会い
── 昭和村にとっては「からむし」自体が宝物なんだと感じます。からむし織の販売について、本名さんはどういう想いで、これまでやってこられたのでしょうか?
本名 そうですね。本気で大事にしてくださらないと、イヤですね。青森県に「暮らしのクラフト ゆずりは」さんというお店があります。店主の田中陽子さんという方が、東北の手仕事を大事に紹介しているという話を20年ほど前に聞きました。大人になって再会したリツ姉ちゃんから教えていただきました。彼女もずっと、昭和村のからむしに想いを寄せ続けてくれていたんです。
本名 そのとき私は、「このひとにお願いしたい」と思って、からむしを持ってご本人を訪ねたんです。でもきっぱり断られました。「福島にこんなにいいものがあるとは知りませんでした。でも私は北東北、つまり青森、秋田、岩手の手仕事に限定して紹介すると決めています。申し訳ないですがお断りします」と。その潔さに敬服しました。がっかりもしましたが、そのまま帰ろうとしたんですよ。すると田中さんから、持っていった着尺を「一本だけお借りすることはできませんか?」と言われて、置いてきたんです。
後日、田中さんは、着尺を返しに昭和村まで来てくれました。そのとき彼女は、「からむし織の生地をずっと眺めていると、なにか惹かれるものがありました。そこには自分の心に残るものがある気がしたんです」とおっしゃってくれました。それで、からむしを栽培されている方や、糸を績むばあちゃんに会ってもらいました。
そのことをきっかけに、「ゆずりは」さんで昭和村のからむしを扱っていただくことになりました。畑から布に至るまで、すべて手仕事でいとなまれる昭和村のからむしは、商品としてはとても高価なものになります。背景が理解できていないと、「なんでこんなに高いの?」と訝しく感じる方もいるかもしれない。
田中さんはその背景をとても大事にし、お客さまにも丁寧に説明してくださいます。村のひとたちの想いをね。そうした姿勢に私も信頼を寄せて、現在まで長く関係が続いています。
── たとえば、田中さんのように想いを大事にしてくれる方が現れたときには、新たな場所でも扱ってもらいたいという気持ちはありますか?
本名 きっとそういう方はほかにもいらっしゃるでしょう。でも、だからといって、色気を出してしまうとね。むしろこれからは、外に新たな場所を求めていくときではない気がします。そうではなく、昭和村のなかで直接、お客さまに買い求めて頂ける工夫を考える時期かもしれません。
── たとえば、昭和村のなかに、お店や工房をつくり、からむし織の製造や販売も行いながら伝えていきたいという感じでしょうか?
本名 そう、ここに来てもらってからむし織の体験ができたり、村のひとの想いも聞けたりね。そういうことが織姫さんの仕事として成立するようになればいいなぁと。1年を通して彼女たちもそれだけで食べていけて、そのために村も協力をするという体制ができたらいいですよね、ほんとうに。
生きていくため、残していくために、ものづくりをして販売すること
── からむし織を販売していく上でも、「想い」の部分が切り離せないことがわかりました。
本名 ただ、「想い」だけではダメなのが現実でもあるんです。以前、昭和村のからむしに尽力された方から「からむしは売るものじゃない。大勢に広めることを考えずに、じねんと続ければいい」と言っていただいたこともありました。
でも結局、生活がね。売れなければ、続けていくのは難しい。そうすると、どんなに想いがあっても、だんだん無くなっていってしまう。
日本全国を見ても、土から育てて糸にしている場所を探す方が難しい。織姫さんたちもせっかく村に来てくれて、彼女たちも生きていかないといけないわけです。だから、綺麗事だけじゃなくて、ものをつくって売っていくのは当たり前のことだと私は思います。この村は贅沢さえしなければ生きていける場所かもしれないけれど、からむしも売れて初めて、残っていくものですから。
本名 そういう意味で、織姫さんたちを通じて、村のなかで直接発信・販売ができればと思うんです。ただ、単にたくさんのひとに来てもらうことに対しては、私もそうですが、彼女たちも躊躇いがあるかもしれません。
── 観光地のように開いてしまうと、風景や空気感を含めて、この村のいとなみが違うものになってしまうかもしれない。それを織姫さんたちは心配しているのでしょうか?
本名 そうですね。彼女たちも、じいちゃんばあちゃんたちに心配や迷惑をかけたくないと思うんでしょうね。いずれにしても、どれも私の願いばかりですね。 織姫さんたちにお願いばかりするのではなくて、村の人間である私たちもちゃんと環境を整えなければいけない。
── 実際に、なにか村での取り組みが行われているのでしょうか?
本名 今年度から、奥会津昭和村振興公社(*1)。(以下、振興公社)では、からむしの買い入れ価格をアップして収入の改善に努めています。ただ、それで食べていけるまでにはまだまだほど遠い。織姫さんたちの持っている力を、村で結集できていない大きな理由に、収入の問題があるのは事実です。なので、この点については引き続き、知恵をしぼっていかないとですね。
(*1)奥会津昭和村振興公社:平成8年8月に、農協から「からむし」事業を引き継ぎ設立された第三セクター。生産されたからむしの全量を買い入れている
本名 また昨年度、役場内でそれまでバラバラに対応していた関連部署を統合して、「からむし振興室」を立ち上げたことは大きな前進だと感じています。それに伴い、からむし生産技術保存協会(*2)。と、振興公社とも一層密に連携できるようになり、「からむし」の今後のあり方を日常的に検討できる体制になりました。
(*2) からむし生産技術保存協会:平成2年(1990)発足。翌年、からむし(苧麻)生産・からむし引きが「国選定保存技術」に認定され、正当な技術の保存と継承を担う団体
「想い」を受け継いだ彼女たちには力があるから
── まとまって協力することによって可能性は広がっていくのではないかと?
本名 ひとりで「ものづくり」をしても、つくれる数は知れている。でも、10人集まれば10個できる。村のひとの協力があればもっとできる。そうすればなにか新しいものがきっと生まれてくる。織姫さんたちもまだ、「自分たちは他所から来たから」という引け目もあるかもしれない。でもそこは堂々と自信を持ってもらって、芯から昭和村のひととしてやってもらえたら、うれしいですね。
── 昭和村のからむしを残していくためにも?
本名 もちろんそうです。それこそ彼女たちが、これまで知恵を学んできているわけですから。もうこれからは、村に残る織姫さんの力がないと、からむしをつなげていけないんですよ。彼女たちが、これからの若い子たちを育てていかないと。そういう役割になると思うんです。
── そういえば以前、からむしで織った厚手のおんぶ紐を、織姫さんたちに見せてもらいました。それがすごくいいなぁって。
本名 きっと、彼女たちのオリジナルなんでしょうね。からむしは吸湿性がよいですし、赤ちゃんが汗をかかずに気持ちよく眠れるようにと考えてつくったものだと思います。そういうところが、織姫さんたちには力があるんですよ。新しい考えで、からむしの素材を活かして。
- 参照:【福島県大沼郡昭和村】だいじなのは、ここでの「いとなみ」が変わらずに 巡っていくこと。からむし布のこれからを探りながら。|「渡し舟」渡辺悦子・舟木 由貴子
- 参照:【福島県大沼郡昭和村】目指しているのは、生きるため、食べるために時間を使い、「もの」を生み出す暮らしかた|山内えり子
昭和村はずっと原料産地でした。それまで村内で「もの」をつくるという考えがなかった。でも今後は、自分たちが栽培したからむしを使って、みんなでものづくりができたら、きっと良いものができる。これからは織姫さんたちの柔軟な考えで、新しい風に乗せて、からむし織を世に出していってほしいですね。
草むしりからはじめていきたい
── 民子さん自身が、これからやってみたいことなどありますか?
本名 私もあと数年で退職になってしまうんですよ。ここ20年は、村のなかでも試行錯誤を繰り返しながらやってきました。でも、村に住む私たちは営業も素人で、ものをつくる力もない。
私がからむしに関わったのは、村自体が「からむしを主体にやっていこう」とゼロから始めた時期でした。全てが新しいことの挑戦で、それは私たちの力ではなくて、これまでにつながってきた村内外のいろんなひとたちの力。ほんとうに感謝しかないですよね。そういうなか、私自身はからむし一筋でやってきたけれど、じつは糸を績んだこともないし、からむし引きをしたこともない。からむし畑をいじったこともないんですよ。だから退職後は、そうした部分でお手伝いをしたい。私も織姫さんに学びながら、草むしりからはじめてみたいですね。
あとは保存食など、食の文化を継承したいです。山に行って山菜採りもしてみたい。昭和村の人間として、織姫さんたちがじいちゃんばあちゃんたちに憧れて、いろんなことを学ぼうとする気持ちに近づけるように。この村の文化を学びながら、私も昭和村になにかを残していきたいです。
── 本名さんも、また一から学んでいくんですね。
本名 そうそう。近所のじいちゃんばあちゃんも、まだまだ教えてもらえる人はたくさんいるので、いまからもう声をかけています。
── 本名さんが過ごしてきた高度経済成長の時代から、ITやAIの時代へと、私たちの暮らしもまだまだ変化していくと思います。そんななかで、未来の「昭和村のからむし」はどうなっていると思いますか? 変化に対する不安はないですか?
本名 時代が進んだら、からむし引きも機械で「シャー」ってできるようになるかもしれないですよね(笑)。 でも、300年以上続いてきたのとおなじく、からむしへ寄せるひとの想いは変わらないと思うな。うん、不安はないですね。変わらないと思います。
── からむしの周辺にある、「昭和村の暮らし」はどうですか?
本名 暮らし……どうだろうねぇ。暮らしを考え直すようになって、都会を離れようとするひとたちもいると思うと、むしろこの村の暮らしもそこまで大きくは変わらないんじゃないですか。かえってもっとよくなるかもしれないですね。
昭和村は、村に入ってしまえば土地も平らだし、水は豊富できれいだし、お米も採れる。雪は深くて大変だけど、その気になれば暮らしやすい場所なんですよ。だから若いひとたちが村にきて、田んぼをつくってみたり。すぐ近くには山もあるから、恵みもいっぱい。また、炭を焼くひとも出てきてほしいですね。そしたら山も元気づく。そんなふうに暮らしていたら、逆に時代がひっくりかえるかもしれないですよね。
平らなこころでゆっくり、じねんと
「草むしりからはじめていきたい」。民子さんがそう語る背景には、こんな想いが隠されています。
「その日は雨が降っていたんですけどね。車でからむし畑のそばを通りかかると、ひとりの織姫さんが草むしりをしているんですよ。都会から来た女性がこんな村のなかで、暑かろうと雨が降ろうと、一生懸命に畑に手をかけてくれて。その後ろ姿に、思わず泣けてきちゃってねぇ。私は村の人間なのになんにもできないんですが、せめて彼女たちの姿を見ていてあげたいと思うんだよね」
草むしりをする織姫さんの背中の向こうで、その姿を見届けている民子さんを、私は同時に思い浮かべました。
土からうまれた糸を継ぐ村──
この物語のはじめに織姫さんのこんな言葉がありました。
「土から一枚の布が織り上がるまで、全部がつながっていること。はじまりから終わりまで、想いが一貫したものづくり。それが、昭和村のからむしの価値だと思う」
そうして物語の結びに、村の女性は言うのです。
「やっぱり、土からというのが大きいのかもしれないねぇ。地味なところでコツコツ。根っこの底力が、ひとを惹きつけるのかなぁって思いますね」
この村に生きる女性たちはくり返します。根っこのところ、地味なところでコツコツと。おばあちゃんたちが、その手と身体に刻みこんできた時間の流れとリズム、そしてその想いを何度も何度も確かめながら。
それが、ここに生きる女の生き様だから。土を離れては見えなくなってしまうことも、ここではたくさん見えるから──。
土からうまれた糸の道は、「平らなこころでゆっくり、じねんと」。これから先も、たくさんの女性たち、この村のひとたちの手のいとなみによって、績み継がれていくでしょう。
民子さんの勤める、奥会津昭和村振興公社では「からむし織の製造・販売」を手がけるとともに、「道の駅 からむし織の里 しょうわ」、「昭和温泉 しらかば荘」の運営も行っています。しらかば荘では、宿泊だけでなく、日帰り温泉を利用することもできます。
今年もすでに、平成30年度(第25期)の「からむし織体験生『織姫・彦星』」の募集が始まっています。募集期間は10月31日まで。
(この記事は、福島県昭和村と協働で製作する記事広告コンテンツです)
文章:中條美咲
編集:小山内彩希
写真:タクロコマ(小松﨑拓郎)、伊佐知美