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【島根県石見銀山・群言堂】流行よりも時代性を追え。「根のある暮らし」を次世代へ|松場登美

今、私は何を継げるか?【島根県石見銀山・群言堂】特集、はじめます。

何かを積み重ねて生きたいと思っても、一筋縄ではいかないのが人の世です。焦ったり、他人と比べたり、諦めたくなったり、不安が空回りして本意ではない道を選びそうになってしまったり。

誰かとの出会いが、大きく自分の人生を変えることもあります。ひとだけではなく、土地との出会いも、同様です。

友達同士や同業者など、「今」を共有する横のつながりは、簡単に手に入れられるようになりました。けれど、時に「圧倒的な時間の流れ」、つまり歴史や受け継がれてきた文化や技術、紡がれてきた時代の深みを求める若者も増えました。

「株式会社 石見銀山生活文化研究所(以下、群言堂)」が拠点を置く、島根県大森町。会社の礎を築いたのは、松場大吉・登美ご夫妻。積み上げてきた日々の暮らしが、ひとを惹きつける場となり、最近では都心から足を運ぶ方も多いそう。

三重で生まれ、大森町に嫁ぎ、日々の暮らしをひとつずつ重ねてきた、登美さん。あなたは毎日、何を感じ、考えて、この場所をつくってきたのですか。そしていま、何を想いながら暮らしているのですか――?

石見銀山生活文化研究所・群言堂 松場登美
群言堂・所長の松場登美さん

(以下、語り:松場登美)

大森町の暮らしが、価値を持つ時代がきっとくる

大森町は、今でこそ石見銀山遺跡が世界遺産に登録されたことで有名になりましたけれども、私と夫の大吉が、この地で暮らし始めた35年前は、鉱山が閉山して過疎地になり、高齢化して衰退の一途をたどっている状況だったんですね。

石見銀山生活文化研究所・群言堂 松場登美

松場家に嫁いだその日に「草の種は、たとえ落ちたところが岩の上であっても、そこに根を下ろさなければならない」という言葉をもらったり、若いころから散々好き勝手してきたから、登美はバチがあたって大森町で暮らすことになったんだ、なんて身内から言われたり、子どもを育てながらの慌ただしい大森町での暮らしが始まりました。

ところがね、じつは私は初めて訪れたときから、大森町が大好きだったんですよ。天領として栄えた歴史や、受け継がれてきた暮らしの中から、ここなら何かできるかもしれないという不思議な土地の力を感じていました。どうしてかと聞かれると、言葉ではうまく説明できないんだけれどね(笑)。

石見銀山生活文化研究所・群言堂

今の会社の前身である「有限会社 松田屋(松田屋は松場家の屋号)」を立ち上げた1988年は、まさにバブル後半の時代。世の中は景気のいい話であふれていたけれど、私たちには何ひとついい話はなくって。大森町に群言堂本店を構えると言い始めた時も「電車も通っていない、バスも1日に数本しか走らない場所に、どうしてお客さまが来ると思うのか」なんて声もありました。でも、私たち夫婦は「いつか時代の大きな流れの中で、大森町のような歴史と暮らしを紡ぐ場所の価値が認められるはずだ」という予感を持っていました。

人間はいつも、自然を見ても芽が出ただとか、花が咲いただとか、実がなっただとか、地面の上で起きていることにしか目を向けない。でも、養分を与えているのは土の中に張り巡らされている根っこです。大森町の暮らしに根ざした、「根のある生き方」は、植物だけでなく人間にとっても、非常に大切なことだと考えています。

「復古創新」世の中が捨てたものを拾おう

私たちには大切にしている言葉がたくさんあって……中でも「復古創新」は、群言堂の理念にもなっています。

復古創新とは、先人が生きてきた過去から本質を理解し、未来からの視点で創造していこうという理念。宿「他郷阿部家」(以下、阿部家)の改修にあたっては、復古創新の思想に従って、私自身が暮らしながら細かい改修を進めていきました。振り返れば、約9年間を阿部家で過ごしたでしょうか。夫は町内の自宅に住んでいましたから、私たちは仲良し町内別居状態でしたけれどね(笑)。

他郷阿部家

石見銀山生活文化研究所・群言堂 他郷阿部家

夫の大吉は、よく「歴史を切ってはならない」と言います。経糸を時間に、緯糸を現代の暮らしに見立てて、織物を織るように生きる。阿部家では、廃校になった校舎から拾ってきた椅子や、染物に使う木版を再利用した長机を食卓として利用しています。そんなふうに、阿部家は古いものを活かすことで蘇りました。建物の成り立ちだけでなく、復古創新をはじめとした自分の考え方や生き方を表現する場として、阿部家はとても大切な存在なんです。

石見銀山生活文化研究所・群言堂 他郷阿部家
バーにもシアタールームにもなる阿部家の一室

群言堂の名前の由来と、「納川」

群言堂は、「不思議な会社」と形容していただくことがあります。

多くの企業は、何か事業をおこそうとすると、デザイナーや営業、シェフなどを雇うけれど「登美さんたちは、誰々さんと出会ったから、今度はこれを始めよう、というふうに人から事業が広がっていくんだね」と言われたこともあって。

本当におっしゃるとおりなんです。「Gungendo Laboratory」は植物担当・鈴木との出会いがあってこそのブランドですし、広報誌の「三浦編集長」は、広報課の三浦がいたから生まれましたし、化粧品ブランドの「MeDu」は農学博士の房の梅花酵母の発見から始まりました。ひとだけじゃなくて、阿部家だって、築227年の武家屋敷と偶然出会ったのがきっかけです。

石見銀山生活文化研究所・群言堂 鈴木
Gungendo Laboratoryの植物担当・鈴木良拓さん
石見銀山生活文化研究所・群言堂 MeDu
化粧品ブランド「MeDu」担当の久保田綾香さん

群言堂というブランド名は、じつはそうした経緯を体現している言葉。「みんながわいわい好きなことを発言しながら、ひとつのよい流れをつくっていくこと」を指すそうです。

これまでに私たちが改修を手がけた10軒の古民家の中には、「無邪く庵(むじゃくあん)」、別名、ろうそくの家とか、五感がよみがえる家と呼ばれる家があります。そこは電気やガス、水道などを引かず、文明の利器を一切排除しているんですが、囲炉裏や、偶然いらっしゃったステンドグラスアーティストの作品や、大森町に住む鉄の彫刻家の吉田さんの作品が並んでいて、とても豊かな空間です。

石見銀山生活文化研究所・群言堂 無寂庵
無邪く庵

「無邪く庵」でみんなと雑談をしながら未来を語っている時に、群言堂という言葉を聞いたので、とても納得感がありました。私たちがやってきたこと、そしてこれからやっていくであろうことは、まさに“群言堂”なのだな、と。

その言葉を贈ってくださったのは、姚和平(やおわへい)さんという方ですが、彼に「納川」という言葉も教えていただきました。

「雨が降って地面に染みこむと、小さな流れが生まれます。やがてそれは川になり、いくつもの川が合流して大河となり、海に注ぎ込みます。海の広さと深さは、異質なものをたくさん飲み込んでできるもの。つまり、国が違うとか、文化が違うとか、そういうことを超えて、異質なものを受け入れていくことで、海のように深くなっていくと思うんです。この場所は、まさに「納川」だと思います」(「群言堂の根のある暮らし」より引用)

阿部家の玄関に飾られた、姚さん直筆の「納川」の文字
阿部家の玄関に飾られた、姚さん直筆の「納川」の文字

川は、たくさんの異質なものを飲み込みながら、海のように深く広く、ひとつの美しい流れになっていきます。その一部を、自分のものにできたらいいなと思いますね。

石見銀山生活文化研究所・群言堂 本社

流行よりも時代性を追う。第3の消費の時代へ

「登美さんが、流行に影響を受けることはないのか」ですか? ないですね。小さい頃から、単に経済を動かすためだけにつくられた流行には、興味がありません。「ダッコちゃん人形」ってご存知かしら。私が子どもの頃すごく流行っていたんですが、一度も欲しいと思わなかったですね(笑)。

流行は追わないけれど、時代性は必要。そこには、明確な違いがあると思います。

gungendo COREDO室町店

今は、第3の消費の時代なんじゃないかと思うんです。これは私が言い始めたことではなく、一部ではすでに認知され始めている価値観ですけれどね。私たちはもののない時代に育ちましたから、良質なものは、大手メーカーがつくる便利で最新のものという価値観でした。ラジオや洗濯機などの家電を買い求めたのが、第1の消費の時代です。

その後、私が20歳を過ぎた頃にはライフスタイルという言葉が聞かれるようになって、ものの質だけでなく、ちょっとアートな感覚だとか、趣味性の高いものが基準になって価値判断されるようになりました。これが、第2の消費の時代。

そして、第3の消費の時代は、それらとはまた別です。ものの質よりも、サービスやものの背景にあるつくり手の考え方や、つくられるプロセスに共感できるかどうか、環境に負荷をかけないつくり方かどうかなどに興味関心を持って消費する人が増えてきた時代のことを指します。

島根県の海士町で暮らす「株式会社巡の環」の阿部さんは、「消費は未来への投票である」と言いましたが、本当にそうだなぁと思いますね。昨今の世の中には、そういった価値観を持たれる方が、増えてきているのではないでしょうか。

「心想事成」諦めずに描き続けば、いつかは叶う

今の若い人は、失敗を怖がりすぎなんです。一歩を踏み出せずに悩んでいる子が、ものすごく多いんじゃないかと感じます。そして、失敗を恐れている。失敗するのは当たり前なのにね。

思い切って失敗すれば、結果が分かるじゃないですか。あ、これはダメなんだって。そうしたら違う道をもう一度やり直せばいいし、その繰り返し。失敗の連続ですよね、人生って。ありきたりかもしれないけれど、私も諦めないことが大切だと思いますよ。成功というのは、何を成功と呼ぶのかわからないし、成功するかどうかは何の保証もないけれど、諦めない限りは、成功に近付くというのはたしかだと思います。

石見銀山生活文化研究所・群言堂 松場登美

……でもね、あっさりとやめることも大事なんですよ。そこが本当に、相反するから困ってしまうのだけれど、大吉なんかは「君子豹変す」という言葉を大切にしていますね。立派な人間は簡単に自分を変えられるという、ことわざ。だから、いくつになってもきっと答えはないのよね。私はやりたいことが多くて、好きなことばっかりして生きてきたけれど、失敗も多くて、もう駄目かと思う局面に何度も見舞われました。でも、まだ挑戦し続けたいし、なにより将来に向けて夢が持てることは、幸せだと思います。

大吉が私に贈ってくれた「心想事成(しんそうじせい)」という書の掛軸があります。時間はかかっても、心に想うことは必ず実現するという意味。ずっと昔から、私と大吉が描いてきた姿が、現在の群言堂の本社の周りに広がる田園風景そのものなんです。いま、心に想っていたことが、実現しつつあります。

まだ私が「ブラハウス」でパッチワークや小物をつくっている1990年台に、タイのチェンマイの美しい竹の村を訪ねたことがありました。そこを見たときに思い描いた、あぜ道があって、丸太の橋があって、石積みの壁と小川、動物の鳴き声、そして茅葺きの家が続いて、社屋が並ぶという光景――あの景色を大森町でもつくりたい、と思い続けたんです。

今、会社に若い世代の力が加わり始めているのは、すごくうれしいですね。私だけではできなかったことを、次の世代の子たちが共感して始めてくれたということだと思います。

石見銀山生活文化研究所・群言堂

大森町の「美しい循環」のある暮らしを、次の世代へ

群言堂の次の時代をどうつくっていくかは、ここ数年、私たちも考えています。でも、企業というものは永遠に発展するわけではなくて、ひょっとしたらなくなる可能性もあります。事実、何千年も続いた事業というのは、いくら100年続く企業が多い日本とはいえ、ないですよね。だからね、「事業形態を頑固に守り続けよう」ということは、じつはあまり思っていないんです。時代とともに変化して継続していくことが理想です。

これは冗談のようにいつも言うんですけれどね、「石見銀山生活文化研究所」という社名は、よく考えると少し不思議でしょう?  大吉に言わせると、「潰しがきく」のが松場家の家訓だから、この名前はちょうどいいんだ、と(笑)。

私の部屋には100年カレンダーが飾ってあります。その中に、確実に私の命日はあるわけです。だから一日一日が大切に思える。たった1回の人生だけれど、まだまだやりたいことだらけです。

企業理念にもある「美しい循環」という言葉は、いろいろに解釈できると思いますが、幸せに産まれて、幸せに育って、幸せに死んでいくという人間の一生が、大森町というひとつの小さな社会のコミュニティでつくられればいいなと思いますね。大森町には、たった400人ほどしかいないけれど、500人限定の村とかにしちゃって、その中で楽しく暮らせればいい、とかね、そんな夢物語を話すこともあります。

ブータンは幸せの国と表現されるけれど、日本には大森町があるぞ! だなんて、いつか言われたら楽しいですねぇ。

お話をうかがったひと

松場 登美(まつば とみ)
1949年 三重県に生まれる。1981年 夫のふるさと大森町に帰郷。1989年 雑貨ブランド「ブラハウス」を立ち上げ、1998年 株式会社石見銀山生活文化研究所を設立。「群言堂」を立ち上げ、商品の企画・製造販売を手がける。2008年 築220年の武家屋敷を再生した宿「他郷阿部家」を始める。株式会社石見銀山生活文化研究所 代表取締役所長、株式会社他郷阿部家 代表取締役

【島根県石見銀山・群言堂】特集の記事はこちら

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探求者

伊佐 知美

旅するエッセイスト、フォトグラファー。1986年生まれ、新潟県出身。世界中を旅しながら取材・執筆・撮影をしています。→ さらに詳しく見る

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【島根県石見銀山・群言堂】見て楽、着て楽、心が元気。ブランド「登美」は暮らしに気付かせてくれる服 【島根県石見銀山・群言堂】泊まれば、もうひとつの我が家になる。築227年の暮らす宿「他郷阿部家」

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