「大川村は、もうぼくの故郷です。」
大川村に来て3年目。「食」をテーマに仕事をしている和田将之さんは、20代のうちに農業する暮らしに挑戦するために移住。高知県土佐郡大川村(以下、大川村)の地域おこし協力隊として活動しています。
それまでずっと関東で暮らしていた和田さんは、なぜ大川村に根を張って生きる決断ができたのしょうか? その秘密は、人口約400人のうちの「ひとり」として村で暮らす存在感にあるといいます。
大川村に来て3年目。「食」をテーマに仕事をしています
── 今は大川村に移住してどれくらい経ちますか?
和田将之(以下、和田) 移住して3年目、地域おこし協力隊としては2年目になります。
── 現在のご活動について教えてください。
和田 活動の中心は、農業と村でおこなわれるイベントの運営、そして「大川村集落活動センター結いの里」で学校給食をつくるのをサポートする業務です。
── 村で学校給食をつくるのは、どうしてですか?
和田 これまでは村から離れた嶺北地域の給食センターで調理した給食を、配送していました。大川村まで配送するのに30分ほどかかりますから、料理が冷めてしまうんです。村では、サル、シカ、イノシシによる獣害の影響がひどくて、栽培した農産物のほとんどが荒らされてしまう状況でした。これが原因で畑を耕すひとが減り、耕作放棄地が増えています。
農家の方に、少しでもがんばってほしい。村の子どもたちに地元の方がつくった野菜を食べて成長してもらいたい。地元の野菜を食べることで、子どもたちに郷土愛を育んで欲しい。この思いのもと、村内に地産地消を促進させる給食センターをつくり、大川村独自の学校給食がスタートしました。
── 和田さんがこの仕事に関わるようになった経緯というのは?
和田 理由はふたつあります。
ひとつは地域の住民の方に、村で学校給食をつくる目的を伝えるため。そしてもうひとつの理由は、大川村で生産している農作物をよく知っていたからです。村で3年間生活してきた経験を活かして、自分にできることがあるのではないかと手を挙げて、この仕事に関わることになりました。
20代のうちに農業をする暮らしに挑戦したかった
── 話は変わりますが、和田さんはぼくと同世代の、20代前半ですよね。しかもご出身は関東だとか。
和田 はい。大川村に来る前は、実家のある群馬県の前橋市で暮らしていました。
── 移住した経緯を教えていただけますか?
和田 大学卒業後は両親のそばで働けることを基準に就職活動をして、ご縁のあった会社に就職しました。けれども働き始めてから、自分がやりたいことはこの仕事じゃないんだなと気づいたんです。そこで、以前から興味があった農業をする暮らしに挑戦してみたいと両親に相談しました。ですが、「地元で一回就職したんだから、3年間ちゃんと働きなさい」と諭されてしまって。
働き方に悩んでいるときに、友だちや先輩に相談しました。すると、自分のやりたいことに挑戦しているひとはイキイキしているということが分かったんです。人生を前向きに生きているひとと比べて、当時のぼくは目標もなく中途半端に生きていた。そんな自分が嫌になりました。
── その後、どうしたのですか?
和田 やりたいと思っている農業が自分に合っているのかどうか確かめたかったし、続けられるかどうかはともかくとして、若い20代のうちに挑戦してみたいと思ったんです。
── なぜでしょうか。
和田 30・40代になったときに挑戦したくても、そのときには家族がいるかもしれない。挑戦するのがむずかしい時期がきっと来ると思います。
親には事後報告で仕事をやめました。それからは、昼間に近くの農家の方のお手伝いをさせてもらいながら、深夜にアルバイトをする生活に。
── 思い切りましたね。
和田 はい。その決断をして半年が経った頃、両親がぼくのやりたいことを認めてくれるようになりました。「農業を学びに行ってきなさい」と応援してくれたんです。まずは農業体験ができる制度を探しはじめました。たまたまインターネットで見つけたのが「緑のふるさと協力隊」です。
村で暮らす、400人のうちのひとりの存在感
── 緑のふるさと協力隊というのは……?
和田 農山村の暮らしに興味をもつ若者が、地域再生に取り組む地方自治体で、住民として一年間暮らしながら働けるプログラムです。すぐに「おもしろそうだ」と思って、緑のふるさと協力隊に応募しました。まずは4泊5日の農業体験プログラムで、東北や中国地方にも行かせていただいて。そして、自分が本当に農業や田舎暮らしに向いているか見極めるために、1年間の農業ボランティアで大川村に来ることになりました。
── 数ある地方自治体の中で、なぜ大川村に来たのですか?
和田 ぼくは親に迷惑をかけてきました。ですから自分にとって最大の収穫のある地域で学びたかった。面接を受けたときに、いちばん大変そうやった大川村に行く希望を出しました。
── 村の人口が少ないというのは、単純に、ひとりでやることが多そうな印象を受けます。
和田 そうですね。大川村は当時、人口は411人でしたし、かつ協力隊を初めて受け入れる地域でした。ここで1年間耐えられたら自信にもなるし、農業に対する適正を見極めることもできると考えていました。
── 実際に大川村で過ごしてみて、当時はどんなことを思いましたか?
和田 緑のふるさと協力隊はボランティアなので、月5万円の生活です。それでもすごく充実した、豊かな暮らしを送っていました。いろいろな良い出会いもあって、大川村に残りたいと思ったんです。
そんなときに「仕事がないのだったら、俺が話をつけてやる」と役場に来てくれた地元の方がいたり、「地域おこし協力隊の枠が一枠あるので、ぜひ残って欲しい」と、役場からお声かけいただいたりしました。たとえば、毎年自宅の裏山で「大川村さくら祭り」を開催している移住者の先輩の川上ご夫妻には、すごく応援していただいていて。ぼくも感謝しています。
── そんなふうに言ってくれるひとがいたら、素直にうれしくなりますね。
和田 これまで自分が暮らしてきた群馬県の前橋市は、人口約34万人。多くのひとがいる中での自分の存在と、大川村で暮らす、およそ400人のうちのひとりの存在感。これまでのどの環境よりも、自分の立ち位置が明確だし、自分ががんばったぶんだけ評価してもらえるのが大川村です。
大川村は、もうぼくの故郷です。
── それから、この取材の1ヶ月前に、金井さんから和田さんにお名前が変わったんですね。
和田 はい(照)。
── ご結婚おめでとうございます。
和田 ありがとうございます。
── 奥さまのこと、うかがってもよろしいでしょうか?
和田 もちろん大丈夫ですよ。妻は大川村出身で、高校から村外で暮らしていました。でも大川村が好きで、Uターンして帰ってきたんです。地域おこし協力隊の任期を終えたら生業にしたいと思っている農作業や、お菓子づくりも妻と一緒にやります。近くにいて支えてくれる存在です。
── 大川村で出会ったのですね。
和田 そうです。ぼくが今の妻と付き合い始めるときは、結婚するか、もし別れるなら大川村を去るくらいの気持ちでした(笑)。
── どうしてでしょう……?
和田 ぼくの奥さんは、お世話になった方の娘さんです。この村でひとりの若い女性がいなくなることに、村民の方々がどれだけ悲しむか想像できます。ここで結婚するということは、ずっと大川村にいて、地域の一員となっていくということ。ぼくが苗字を変えるほうが自然やと思って、金井から和田になりました。
── もともと関東で暮らしていた和田さんは、なぜここに根を張る決断ができたのですか……?
和田 生きていくうえで、選択肢ってたくさんあります。でも自分が選べるのは、その時々にひとつずつですよね。ですから自分が選んだ選択肢よりもいい選択肢がひょっとしたらあるかもしれないと、ぼくは思うんです。考えようによったら、他の地域に行けば自分がもっと輝き、成長できたかもしれない。
けれど自分で選んで大川村に来て、素晴らしい出会いがありました。そのとき一生懸命悩んで考え抜いて、選んだ答えで、今も一生懸命生きています。自分だけではなく、地域のひともいろんなことで葛藤しながら生きています。そうであっても、前もよく見えてないような自分に対して「大川村でがんばってくれ。残ってくれ」と言ってもらえているのは、本当にありがたいことです。
── 奥さまが大川村ご出身だということも大きな理由ですよね。
和田 はい。支えてくれる妻がいたから、大川村でずっと暮らしていきたいと思うようになりました。お弁当をつくってくれるし、ときには愚痴も聞いてくれる。田んぼ、畑、お菓子づくりも一緒にやってくれる。ふたりで同じ方向を向いて進んでいます。近くにいて支えてくれる妻に、本当に感謝しています。
── 最後の質問です。和田さんにとって、大川村とはどんな存在ですか?
和田 大川村は、もうぼくの故郷です。自分のホームグラウンドのような、いつでも安心して帰って来られる場所。どんなことがあっても動じずに強くいられます。大川村で暮らすことを選んだことは、間違いではなかったと思っています。
お話をうかがったひと
和田 将之(わだ まさゆき)
1990年生まれ。群馬県前橋市出身。大学卒業後、地元企業で就職。農業や田舎暮らしへの興味から2014年にみどりのふるさと協力隊に参加し、大川村へ派遣。一年間の活動の後、地域おこし協力隊として大川村に残り、地元女性と結婚。現在の活動は棚田再生や野菜作り、イベント運営のサポートの他に村内の学校給食にも携わる。手作りの石窯でのピザ焼きやイノシシ肉の燻製作りにも挑戦。