英語? 話せません。サービス? 必要最低限です。東京の谷中? 何もないところです。
それでも、毎日満室の「澤の屋旅館」(以下、澤の屋)。世界各国の旅行者が使う口コミサイト「トリップアドバイザー」では、他の有名旅館やホテルをおさえて都内満足度1位の座を守っています(2015年11月現在)。
宿のご主人・澤功(さわ いさお)さんのもとには、訪日外国人観光客はもちろん、日本人旅行者や、全国で宿泊業や観光業に携わる人々がアドバイスを求めて訪れます。「私、英語はほとんど分からないんですけれどね……」と話し始めた澤さんから、宿を介した経営から世界平和のための観光についてまで、幅広くうかがいました。
3日間お客ゼロの危機をチャンスに
澤功(以下、澤) 今日はよろしくお願いいたしますね。まずは「澤の屋」の概要からお話いたしましょうか。
── はい、よろしくお願いいたします。
澤 「澤の屋旅館」という名前で始めたのは昭和24年。義理の母が8部屋を用意して開業しました。請けるお客様は、修学旅行生などの団体様で、部屋数はお客様が増えるのと同時に少しずつ増設していきました。中居さんや板前さんのいる観光旅館で、私は婿養子として「澤の屋」へやって来ました。それが、ちょうど東京オリンピックが開催する年だったから「澤の屋」は日本人のお客様であふれていて大繁盛。旅館としても波に乗っている時期でした。
澤 けれど大阪万博が終わって、昭和45年頃からビジネスホテルが登場し始めました。ビジネスホテルなら、駅チカで安く、ベッドのある個室で好きな時にお風呂に入れる。当時の「澤の屋」は、全室トイレもお風呂も共同でしたから、日本の人たちの生活の変化に合わなくなってきてしまったんです。
一昔前なら、出張で泊まりに来たサラリーマンが、上司と部屋で麻雀をしたり、修学旅行生が枕投げして怒られたりしていたんだけど、ひとりの時間が欲しい人や、マナーに厳しい人が増えた。「澤の屋」のように、個室に複数人で泊まるスタイルは、好まれなくなっていきました。
どうすればいいか分からなくて混迷していた時、とうとうお客様ゼロという日が3日続いてしまった。このままでは確実に廃業する。そこで思い切って、以前からご縁があった新宿にある矢島旅館さんへ相談に行きました。そこへ行くと外国人のお客様ばっかり。当時は昭和57年で、外国人旅行者は今ほど多くはありませんでしたから、本当に驚きました。
しかも矢島さんは英語をほとんど話せない。でも、接客をしている相手の方はニコニコしているし、どうやら通じているようでした。矢島さんから「澤さんのところでも外国人のお客さんを受け入れたら?」と言われて、覚悟を決めました。それからは、少しずつ外国人のお客様に「澤の屋」のことがクチコミで広がって、これまでに89カ国から述べ17万人の方に宿泊していただいています。
── 覚悟を決めて、そこからどんなふうに海外へアプローチしたのですか?
澤 今のようにインターネットが発達しているわけではありません。矢島さんが会長をしていたジャパニーズ・イン・グループという、小規模旅館が連携して海外向けに宣伝活動をしている会員制の団体に登録しました。それから「ロンリープラネット」。世界各国で販売されているガイドブックで、ロンリープラネットの日本版が1981年に出版されたのですが「澤の屋」は2版目から載せてもらえるようになったんです。そのおかげで、外国人を受け入れようと決めて数年で、年間宿泊者数が200人前後だったところから3,000人に増えました。
できることは精一杯、できないことは「ごめんなさい」。
── 慣れない海外からのお客様と接するなかで、はじめは戸惑うことも多かったのではないでしょうか。
澤 もちろん、大変なことはたくさんありましたよ。まず初めは、お手洗いを変えるところから着手しました。「澤の屋」のトイレは和式で男女共用でしたが、外国人の方の多くは抵抗のある方が多くて。トイレで用を足したあと、水を流さないというお客様同士のトラブルもありました。それから、共用のお風呂の栓を良かれと思って抜いてしまうとか。彼らに悪気はないんですけれどね。
ただ、すべての要望に応えるのには限界がありますし、口で伝えても生活習慣はなかなか抜けないものです。89カ国の人が全員喜ぶサービスなんてありえない。そこで、家内と相談して始めたのが張り紙大作戦。
── 張り紙大作戦?
澤 悪気はなくてもされると困ることに関しては、事前に注意喚起しようと思って、お風呂やトイレの使い方などの張り紙をつくったんです。私と家内で書いた英語だから、時々お客様に間違いを教えてもらうこともあって、修正する時もありますよ(笑)。
文化の違いは、良い悪いの問題ではありません。ただ私たちの「できることや頼まれたことは一生懸命やるけれど、できないことはすみませんが、できません」という姿勢を見せることは大事です。
よく、宿泊業を営む人の中には、お客様と従業員には上下関係があって、お客様を神様扱いする考えもありますけれど、私は対等よりちょっと下、くらいの感覚です。欧米の人にも卑下しないし、アジアの人にもいばらない。うちはどこの国の人でも予約を受けるけれどそのかわり、誰に対しても同じもてなしをします。
── 日本人と外国人のお客様で相違点はありますか?
澤 日本人のお客様は、宿泊日数が少ない傾向にあります。あと、求めるサービスの質が高い。そこに合わせると、私たちみたいな家族経営の旅館だと、至らないところが出てきてしまうんです。
けれど外国人のお客様は、宿泊日数が長くて1週間以上はふつうです。そして、自分のことは自分でやる。だから「何かしてあげなくちゃ」と思ってあれこれ試したこともありましたけれど、基本的に過剰なサービスは「No, thank you.」なんです。だから「ご自由にどうぞ。何か困ったことがあればやります」という意識に切り替えました。
「澤の屋」に宿泊するお客様のほとんどは、旅慣れた方が多いです。昔から、宿泊してくれた方にアンケートをとって、データを集めていますが、お客様の職業を数えれば200種類くらいあるんじゃないかな。その中でも特に多いのは、企業経営者。いわゆるお金持ちです。彼らは、都内の高級ホテルや旅館に泊まれるくらいの財力があるにもかかわらず、「澤の屋」を選んでくださるんです。
── 家族経営ならではの「澤の屋」のあたたかさが魅力なのでしょうか。
澤 顔が見えるから「澤の屋」に来ると安心するというのは、よく言われます。彼らにとって、宿は手段ですから旅の仕方に合わせて選びます。
あるお客様には「澤さん、僕は仕事のときはここには泊まれないよ」と言われました。理由を聞くと「畳とちゃぶ台のある部屋では仕事ができない」と(笑)。でも、プライベートの旅行ではリピートしてくださる。東日本大震災の時も、宿泊者数は減ったけれど、いろんな方からメールをいただきましたし、わざわざお得意様が泊まりに来て下さることもありました。
流暢に英語を話せなくても、コミュニケーションをとろうとする姿勢が伝わるから、お客様もその中で理解しようとしてくださる。あとは、アンケートでいろんなデータをとって、あれこれ試すことで学んだこともたくさんあります。回収率も、8割くらいかな。帰る前の日くらいに書いてくださいってお願いすると、書いてくれるんです。ほぼ毎日顔を合わせているから、お客様も愛着を感じて下さるのだと思います。
これからの訪日観光は町ぐるみでおこなう
── 下町ならではの人情が、国を超えて伝わっているんですね。
澤 そうですね。この谷中という地域は今でこそ注目されていますが、昔から住んでいる人やお寺が多い地域で、特に目玉になるような観光スポットはなかったんです。関東大震災でも焼けず、第二次世界大戦の時も爆弾が落ちなかったから、300年くらい前からほぼ変わっていない町なんです。
それでも今、谷中に人が集まっているのは日本人の歴史と昔ながらの暮らし、文化が残っているから。外国人のお客様のうち旅慣れた人たちの興味関心が、観光スポットよりも日本人の「日常」に移ってきていることもあって、谷中に魅力を感じる人が増えているのだと思います。しかも谷中の人たちは、もう「外人」扱いしない。いるのが当たり前だから、特別視しないし、自然に入っていけます。
澤 外国人旅行者の多くは、日本人が当たり前だと見過ごしてる普通の日常的な活動に興味を持っています。それに気がついてから「澤の屋」では夕食を出していません。人手や予算の問題もあるけれど、町のなかに出て行って、ごはんを食べることで、よりいろんな日本人や風景に触れられますからね。
── 何もないと思っていた谷中が逆輸入的に国内でも人気を集めているんですね。
澤 私たちでは気づかないような何気ないことがきっかけで、日本を好きになってもらえるものです。外国の人を呼びたいなら、新しいものを作ろうと思わないで、今あるものをなくさないでいてほしい。その地域だからこそ生まれる良さがあるはずです。キレイなところだけ見せようと思わないでいいんじゃないかな。
「観光は平和へのパスポート」だと信じて
── 宿のサービスや雰囲気だけでなく、東京の谷中という立地があるからこそ生まれる「澤の屋」の魅力もあるということですね。
澤 そうそう。だから、これから他の地域で訪日外国人観光客を受け入れるならば、「澤の屋」のやり方をそのまま真似してもうまくいきませんよ。私たちが由緒ある高級旅館の真似ができないのと同じように、それぞれの地域や規模に合わせたやり方があっていいんです。
なぜなら、さきほども言ったように外国人のお客様は自分の旅の仕方に合わせて宿を決めるから。「澤の屋」の場合は大きくすると、お得意様も離れてしまってすぐ潰れると思いますよ。
澤 今は情報網が発達していますから、たとえ人里離れた山の中に宿をつくったとしても、その地域性を活かした宿であれば人は来ます。「澤の屋」は、訪日外国人のお客様を受け入れることでしか、生き残る方法がなかっただけなんだけど(笑)、自分たちの宿の生き残りのためでもあり、今は世界平和のために宿泊業をしているという意識もあります。
── 世界平和のためというのは、具体的にどういうことですか?
澤 日本の良いものをいっぱい知ると、また来てくれるし、日本に愛着がわきます。国際観光は、いろいろな国の人がいろいろな国の歴史や文化に肌で触れることで、先入観や誤解を解くきっかけになると思います。多様な国の人々と交流すれば、それはおのずと世界平和につながるんじゃないかなと。「観光は平和へのパスポート」、これは1967年、国連の国際観光年のスローガンですが、まさにその通りだと思います。
日本の観光業に正解はありません。ホスピタリティとか、おもてなしと言うけれど、それはフタを開けてみないと分からないことばかりです。国内で外国人のお客様を受け入れる側としては共存共栄の姿勢で、外国人のお客様に対しては、一人でも日本を好きになってくれる方が増えればいいなと思っていますよ。まあ、言ってしまえばこの仕事が、とても好きだということに尽きるんですけどね。
お話をうかがった人
澤 功(さわ いさお)
1937年新潟県生まれ。中央大学卒業後、東京相互銀行に入行。結婚を機に銀行を退職し「澤の屋」へ。1982年に外国人の宿泊客を受け入れはじめ、1998年までジャパニーズ・イン・グループの会長を歴任。2009年には観光庁のビジット・ジャパン大使に任命された。
この宿のこと
澤の屋旅館
住所:〒110-0001 東京都台東区谷中2-3-11
最寄駅:東京メトロ千代田線「根津駅」
営業時間:7:00~23:00
チェックイン:15:00
チェックアウト:10:00
電話:03-3822-2251
公式サイトはこちら
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