人口約400人の、高知県嶺北地域の大川村は、山に囲まれた村です。民家は標高の高い山の上のほうに、ぽつりぽつりと建っており、なかには「どうやってそこへたどり着けるの?!」と思うような場所に、人々が暮らしています。
その大川村で、高知県では貴重な夏秋(6月中旬~11月)のユリを出荷している花き農家さんがいます。
軽トラを軽やかに運転して出迎えてくださったのは、山中教夫さん。ご家族で営まれている花き農家にかける想いを、出荷前のユリに囲まれながらお話していただきました。
夏秋のユリの栽培は、西日本ではめずらしい
── いま何本くらいのユリが植わっているのでしょうか?
山中教夫(以下、山中) ひとつのハウスに、だいたい1万5千本くらいですかねぇ。
── ユリのなかでも、いろんな種類があるんですか?
山中 はい、うちは基本的にはユリだとシベリアを育てています。時期に合わせて出荷するのは、ランカスター、アイスドリーマー、セーラ、キセント、マルコポーロ、それからノバセンブラ、プレミアムブロンド。で、チェルシーと、オバダ。
── そんないっぱいあるんですね! しかも名前がどれもおしゃれ。
山中 4月に植えたら出荷するまで3ヶ月ちょっとかかるんです。6月後半くらいの夏やったら2ヶ月ぐらいで出る(出荷する)品種もあります。ふつうのユリの生育時期より早めに育てる早生(わせ)と、時期を遅らせる晩生(おくて)の3段階に分けて、育てちゅうがです。
市場に輸送する時も、10度ぐらいまで冷やして持っていきますね、夏は特に冷やして。そうせんと、つぼみがスッと口を割るけえ商品価値がなくなるがですよ。
── 少しでもつぼみが開いたら、ダメということですか。
山中 市場で競りにかかったときに、花がちょうどいい色になるぐらいで切って持っていかにゃあ。時期によってもだいぶ色の出方が違います。品種によっては、つぼみは初め緑色で、緑が順々に白うなって薄いピンクが出てくるんです。
山中 うちは標高が高いところでつくっているので、きれいな色を出すことができるんです。じっくり花が開くと、ユリは綺麗に色が出る。でも、夏になったら色が出んのですよ、真っ白になってしまう。日本人は薄ピンクが好きじゃないですか(笑)。だからその色味は大事にしようと思って。
── たしかに、桜も薄ピンクです。
山中 ユリを育てるのに低い気温は必須やき、夏場の産地は標高が高いところが主になります。
── 大川村は山肌に家がくっつくようにして建っているという印象でしたが、この山中農園さんもだいぶに山の上にありますよね。
山中 どうしてこんなところにビニールハウスを建てたんやって言われたこともあるなぁ(笑)。うちで言ったら、一番上まで行くと標高900メートルになる。昼間の暑さは、ほかの地域と同じくらいなんですけど、朝夜の温度はすごく下がる。そうすると、生育のスピードがゆっくりになるんです。
── 夏や秋のユリを高知や四国でつくっているのは、めずらしいとうかがいました。
山中 西日本では、よけい少ないですね。温度が高すぎると、生育が悪うなるんで。発色も軸の柔らかさも良くない。暑すぎるからと遮光をかけ過ぎたら、今度は茎が柔らかくなったり……基本的には作りにくいとはされちゅうがですよ。
── いいユリというのは、どういうふうに判断するんでしょうか。
山中 ユリの花首の太さかね。この花首の部分が根っこの部分と変わらんぐらい太ってきよったら、いいかな。逆に細くすぅーってなっちゅうのは、出来が悪い。ボリュームのある花を支えるためには、花首が太くないといけないんです。あとは、花が太いかどうか。
── 花が太いっていうのは、どういうことなんでしょう……?
山中 つぼみが太くふくらんでいるのを、“花が太い”と僕らは言いゆうです。僕らはつぼみでしか見んけえですね。つぼみが太ければ、花が大きくしっかり咲きますから。
花と出会ったふしぎな縁
── 山中さんのご家族も、いっしょに花き栽培をおこなっているのでしょうか。
山中 はい。親父はずっと農協の職員やったんですけど、僕が中3くらいのときに、農協を辞めて。その前から、ほうれん草をうちでつくりよったがですけど、僕が高校生のあいだに、知らんうちに花をつくりだしていたんですよね。僕、高校は高知市内へ下宿しておって、親父が花をつくっているのを知らなかった。偶然、親子で花づくりに携わることになりました。
── そうなんですね。いずれ家を継ぐという思いはありましたか?
山中 ありました。大学へ行く時も、大川村に戻ってなにかしようと決めて、農業を勉強するために行こうと思って。なにをするかは、当時はまだ決めていなかったんですけどね(笑)。そのために、大学生の頃はオランダに留学したこともありました。
── どうしてオランダだったんですか?
山中 日本で育てられているユリの球根は、ほぼぜんぶオランダから輸入しているがです。花き農家として1年勉強をしに行っていました。切花を学んでいたのは僕だけで、あとは酪農とか鉢物農家が16人くらいいたかな。
── オランダから留学を経て、大川村に帰ってきてそのあとすぐに、お父さんと一緒に働き始めたのでしょうか。
山中 はい。市内の花き農家さんで3ヶ月くらい修行をさせていただきましたけどね。
── 親子で商売をやるとなると、ぶつかることはありませんか?
山中 衝突は、しょっちゅうありますね。今でも。初めのうちは僕もなんも知らんかったし、いろいろ他のひとらにも教えてもろうて試すたび、衝突していました。けどうちの親は、新しいこととか今まで親父たちがやっていなかった植え方とか、ある程度は受け入れてくれて。結構いろいろやらせてもらえとるなぁと思いますよ。
── 大川村の外で花き農業をやりたいとは思わなかったのでしょうか。
山中 うーん……生まれ育った土地やき、戻るのがふつうというか、それ以外考えなかったですねぇ。
うちの母親の実家が大川の黒牛を飼い始めたり、僕がちっちゃい頃からじいちゃんらが働く姿らを見ちょったりしていたし。そういう場所やき、自然と大川村でやっていきたいって思いましたね。
ユリが新たな大川村の産業に
── 嶺北での花き農家とかユリ栽培の歴史というのは、どれくらいのものなんですか?
山中 30年くらいですかねぇ。僕の親父や、大川村のほかの農家さんが始めたのが30年くらい前なので。それまではみんな田んぼとか、牛を飼っていました。
── どうしていろいろある花のなかから、ユリになったのでしょうか。
山中 地元の市場が、夏場にないから。北海道とか北の生産地からとってくるよりかは、地元のものを売りたいっていう気持ちが花屋さんにもあったみたいで、それで始めちょったがです。
── そうなんですね。ということは、山中さんが2代目。今後、規模をもう少し大きくして大川村の産業につなげていきたいという思いはありますか。
山中 そうですね。それはずっと考えとる。大川村は山に囲まれとって、平地がない。だから、農家をやるにも山を切りひらかなきゃならん。大変やけど……、今、僕のところにも若い子たちに来てもろうています。
山中 ゆくゆくは、将来的にその子らが経営をできるようになればと思うちょる。だから僕が結婚して1年してから、法人化したがです。
── 少し先の目標で言ったら、そういう仲間を増やしていくことでしょうか。
山中 そうですね。5人ぐらいやったら……。このまえ牧場で牛を飼いよったひとから、新しく土地をゆずっていただいて「ここもハウスにせえや」って言ってもらっているんです。だから、ここ2、3年で新しくハウス建てたいと思っています。それから、季節に合うほかの草花にも挑戦していきたいですね。
お話をうかがったひと
山中 教夫(やまなか のりお)
嶺北地域の大川村出身。2004年に就農し、2014年に農事組合法人山中農園を設立。嶺北地域の花き農家でグループ「とされいほくコンフィデンスフラワー」を結成し、品質の向上と安定を目指す。