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【島根県海士町】離島でグローカル!ぼくの新しい挑戦 隠岐國学習センター長・豊田庄吾

隠岐國(おきのくに)学習センター長の豊田庄吾さんは、以前、子ども向けの出前授業をする講師として、全国を飛び回っていた方です。そして大手情報出版会社の社員として、新規事業の立ち上げや人事を任されてきた実力者。華やかな経歴の中で、離島への移住は異色に見えます。

なぜ、教育事業の最先端をいく豊田さんは、移住先に島根県の海士町を選んだのでしょうか。

海士町の教育事業の根底にある「島前高校魅力化プロジェクト」において重要な拠点になっている「隠岐國学習センター」で、豊田さんの素顔に迫ります。

全国を飛び回っていた子ども向け講師は、なぜ離島に来たのか

隠岐学習センター
隠岐國学習センター

── 急なご連絡(編集部は海士町に来る数日前に豊田さんにご連絡をしました)にもかかわらず、お時間をいただけて大変うれしいです。豊田さんは、海士町のこと、教育に関することをお話されることが多いですが、今回うかがいたのは豊田さんご自身のことです。東京から海士町に来るまでのことについて、教えていただけますか。

豊田庄吾(以下、豊田) はい。海士町に来る前は東京にいました。新卒で大手情報出版会社に入社して、人事やWeb事業の仕事をしていて、たとえば大手家電メーカーのサイトや自社が発行している結婚情報誌の九州版の立ちあげなどを担当しました。目が回るほど忙しく、当時は毎日、早朝から夜の1時から3時くらいまで働くような生活をしていたんです。

そして29歳の秋に会社を辞めて起業しようとしましたが、父親が経営していた飲食店関連の事業がうまくいかなくなってしまって。それまで自分が貯めていた起業資金を父に渡し、起業は断念しました。

── それは大変でしたね。

豊田 30歳以降は、しばらくの間かなり貧乏な生活をしました。それこそパン屋さんのレジの隣に無料で置いてある、パンの耳をもらって食いつなぐような日々でした。

「家がピンチのときは、家のために生きろ」が我が家の家訓です。30歳で日雇いの仕事もしました。そのときはさすがに、「出口のないトンネルはない。がんばればいつか出口が見える、なんて嘘だ!」と思えるくらい苦しかったですね。

そんなときに、友達がたまたま誘ってくれたクリスマスパーティーで、株式会社ウィル・シード(以下、ウィル・シード)の副社長と出会いました。ガリガリに痩せ細ったぼくを見て、「何があったんだ」と。嘘偽りなく苦しい状況を話したら、もったいない、ウィル・シードの成長時期だから入社してくれって誘ってくれました。真っ暗闇だったトンネルの出口が見つかったのは、それがきっかけです。

── ウィル・シードでは、どんなことをされていたんですか?

豊田 入社してすぐに、子ども対象の授業を受け持って、徐々に大人向けの研修の講師として教壇に立つようになりました。大手企業向けに、新人研修のための人材育成や企業研修をしていましたが、子ども向けの授業の方が楽しくて、どんどんハマっていったんです。

毎年、全国の150校、およそ2万人の生徒に、起業家マインドを醸成させるためのデリバリー授業、通称「出前授業」をしていました。北海道から九州まで全国を回って、1日6時間、ぶっ通しで授業をします。毎日やるんだから、それに応じて教えるスキルが高まって、子どもからの授業評価でも、かなり高い評価を獲ることができました。

それからは自分が教壇に立つだけではなくて、授業をする人(=講師)を教えるようになった。そんな中、海士町と出会うきっかけになったのは前職のSONYで人事をしていた、岩本悠くん。ぼくも前職時代人事をしていて、かつお互いプライベートの名刺が「教育×地域」というキーワードが含まれていて、同じことを考えてるんだなって思ってたんですね。

でも、いつからか彼を見なくなって1、2年くらいすると、NPO法人ETIC(エティック)のセミナーで再会しました。

久々に話すと、「じつは海士町に移住した」と。当時は1年間で100人くらいの若者が島(=海士町)に移住していたので、全部で2500人規模の人口が暮らす離島に、100人も人間が来るなんてすごいなと思いました。そのとき悠くんとは、「いつか海士に出前授業で呼んでよ」と口約束をしました。

── じゃあ、初めて海士町に訪れるきっかけは、出前授業だったということですね。

豊田 それから1年半ほど経って、「ようやく授業をしていただける準備ができたので海士町に来てください」と悠くんからメッセージが来た。そして2009年の9月に、出前授業で海士町に初めて来ることになりました。

授業が終わったその夜に、BBQをしながら、ぼくが出前授業をした島前高校は少子化で潰れそうだということを聞いたんです。そして、廃校という危機を抜け出すために高校を元気にするプロジェクト(現:島前高校魅力化プロジェクト)を進めたいから、一緒にやらないかと誘われました。これは「島前高校魅力化プロジェクト」なんて名前はなかった頃のことです。丁重にお断りしましたけどね(笑)。

豊田庄吾

── 1度は断っているんですね……。それは、なぜですか?

豊田 東京での仕事が忙しいし、楽しかった。その頃は大人向けに研修をしながら、子ども向けの事業部長をしていたんです。そうなると全国の50以上の自治体とのご縁があり、それを突然切るわけにもいかない。

そして2009年の春に悠くんから2度目のオファーがありました。嘘か本当かはわからないけれど、「60人面接していいひとがいないから、話を聞くだけでいい。海士町に来てくれ」。そんなメッセージだったと思います。

ぼくは実家がある福岡に帰るついでに、海士町に寄ることにしました。悠くんと話して、そのあと海士町を紹介するプレゼン用のスライドを見ました。そのスライドに青く描かれた「海士町という船」は、引船となって持続可能な社会へと導くタグボートになるというんです。

ぼくは、その小さな船に乗りたいと直感的に思って、同じ日の夜に隠岐牛を食べながら「移住します」って言っちゃったんですよね(笑)。実際に移住したのは2009年の11月のことです。

グローカルな人間に育ってほしい

隠岐学習センター

── 島に来てから、2015年の秋で6年が経ちますね。この島で暮らしてきて、一番心に残っていることはなんですか?

豊田 結婚式を島で挙げたことです。誰も式を挙げたことがなかった御倉神社で結婚式をして、結婚パーティーは港の建物「キンニャモニャセンター」でおこないました。準備はとても大変だったし、本当にまわりに迷惑もかけた。移住して半年くらいだったから、まだ関係性ができていない人もいたんです。それでも本当にいい式を挙げることができたので、これはもう、島に必ず恩返しをしないといけないなと思いました。

── その恩返しが「教育」になるのですね。

豊田 自分に何ができるかを考えたときに、「教育」という武器で、恩返しをしていきたい。この島だからこそローカルの価値観を大切にした教育を。

── ローカルの価値観?

豊田 そもそもぼくは、PDCAをいかに早く回すかとか、投資した資金で早く結果を出すとか、競争で勝つとか、資本主義経済的な考えに近かった人間です。でもあるとき、お互いが助けあって島の暮らしをつくっていくスタンスのほうが大事だと思った。それはローカルの価値観のひとつです。

移住してから1年目、九州大学の岡田昌治教授に島前高校に出前授業をしていただいたときのこと。(グラミン銀行をつくったムハマド・ユヌスさんと一番仲のいい日本人だそうです)彼から言われた言葉が、島で過ごしてきた6年間で一番印象的でした。

「トヨタくん、地域が元気になるために何かしたい、アイデアが湧かないというときに島の外から来た大手企業が、コンサルしますよ、教えてあげますよって言うことがあるけどね。あれは本当に失礼で、おこがましいことなんです。彼らにどんなノウハウと実績があるかは関係ない。地域の人に教えてあげるんじゃなくて、本質的なことは地域の人のほうが知っているんだから、大手企業の人たちは教えてもらっている立場なんです」

そう言われて、ノウハウや経験で島の教育を変えたいと、ちょっとだけ上から目線だった自分に気付かされたんです。

豊田庄吾

── 本当にハッとなる出来事だったのですね。「本質的なこと」とは、なんだったのでしょう?

豊田 東京と比べて地方で生きること、暮らすことは簡単ではありません。たとえば、夕ごはんを食べようと思ったんだけど食材のストックがなくて、飲食店も閉まっていてコンビニなんてもちろんない、という状況に陥ったとします。30代半ばで夜メシが食えないなんてね(笑)。困るわけですよ。でも「それならうちで食べなよ」って、すぐに近所のひとがご飯をつくってくれる。島で生きていると、助けてもらって暮らしている実感があるんです。

「してあげる」のではなく「助けてもらったお返しとして仕事をする」というスタンスになると、だんだん自分自身のあり方がローカルの価値観へと変わってきたんです。

── なるほど。それまで都市型に寄っていた自分が、最初の1年でローカルな価値観の大切さを学んだということですね。

豊田 そうですね。だからこそいかにこの価値観という「流れ」に合わせて、いい意味で自分も染まりながら、流れに流されることを楽しみながら、みんな一緒に暮らしていく感覚を持てるか。そのためには、その地域にある人々の暮らし、あり方を大事に受け止めて、リスペクトしながら自分を変えていくことが大事だと思うんです。

── ローカルの価値観を育てるための事業として、「島留学」も通ずるところがあると。

豊田 海士町で学ぶ子どもたちには、資本主義経済的なグローバルセンス(都市型のセンス)だけではなく、地域の流れを汲むローカルセンス(田舎センス)のどちらも理解できるバイリンガルな人間になってほしい。そして、ふたつの価値観のいいところを大切にできるグローカルな人間になってもらいたいなと思っています。

島のため、故郷のため、日本のためにがんばれる

── 豊田さんをここまで突き動かしてきた根源にあるものはなんですか?

豊田 ぼくを動かす原動力……それはやっぱり、島の人たちの恩返しの気持ちです。でも、同じくらい強いのは、故郷である福岡の大牟田への思いです。炭鉱町だった頃は人口は23万人いましたが、近年は人口が12、3万まで減っているのですが、そのことに対して(一部の)地元の人間は、言い訳ばかりしていたんです。

けれど大人がやることって、そうじゃない。たしかに言っていることは正しいし、事実でもある。それでも大人は現実の厳しさを受け止めながら改善するために知恵を尽くし、チャレンジすべき。もっと故郷の人にもトライしてほしいんです。

大牟田よりももっと不便な海士町で持続可能な地域のモデルをつくれれば、故郷は言い訳ができなくなる。むしろ条件の悪い地方の人たちでも、離島の隠岐で成し得たことなら、私たちはもっとよくできるんじゃないかって思えるかもしれない。もっと言うと、これはおこがましいけれど、日本の元気がなくなっている地域に間接的にでも応援することにつながればいいなあ、と。

島のため、故郷のため、日本の地域のためだと思うから、今もこうしてがんばれるのだと思いますよ。

隠岐國学習センター

お話をうかがったひと

豊田 庄吾(とよた しょうご)
福岡県大牟田市出身。大手情報出版会社、人材育成会社を経て、2009年11月海士町(あまちょう)に移住。高校魅力化プロジェクトに参画し、高校連携型公立塾、隠岐國学習センターを立ち上げ、現在同センター、センター長。学校と地域が一体となった人づくりの実践者として、地域の未来の担い手を輩出する『現代版松下村塾』を創るべく奔走中。 キーワードは継承、志、グローカル人材。

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小松﨑拓郎

ドイツ・ベルリン在住の編集者 / フォトグラファー。茨城県龍ケ崎市出身、→ さらに詳しく見る

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