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【島根県海士町】ぼくが島に辿り着くまで− 巡の環 信岡良亮 −:第1回

島の「学校」をつくるために、離島で起業。移住した島根県海士町で地域づくりや教育、メディア事業を通して持続可能な新しい社会と暮らしを探っている、株式会社巡の環の信岡良亮(のぶおか りょうすけ)さん。『僕たちは島で、未来を見ることにした』の著者であり、平成26年度「ふるさとづくり大賞」受賞の立役者でもある信岡さんがお話してくれたのは、海士町での暮らし、そして町の課題、さいごに島の大使館構想について。全3回に渡ってお届けします。

第1回は、海士町に移住する前から現在までの「暮らし」を振り返っていただきました。

先輩に呼ばれ上京。ベンチャー生活がスタート

── さっそくですが、信岡さんが海士町を訪れるまでの経緯を教えてください。

信岡良亮(以下、信岡) 学生時代は、京都の大学に大阪から通っていました。22年間ほど関西にいて、はじめは大阪で就職が決まっていたんですよ。だからこのままずっと関西にいるのかな?と思っていたら、急遽上京することになりました。

── なぜでしょうか。

信岡 当時、知り合いの先輩から「ちょっと東京で仕事手伝ってくれない?」と電話がかかってきて。大学4年生だったから卒業に必要な単位だけ取り終えたら、すぐ東京へ行きました。

海士町へ向かう船頭

信岡 東京では、新しいウェブサービスを立ち上げる合宿をしていました。合宿を終えて、ぼくを東京に呼び出した先輩と、合宿中ぼくと同じチームだったリーダーのふたりで一緒に会社をつくるから、「お前も来ない?」って誘われて。二つ返事で「じゃあ行きます!」と、3月末に内定を辞退して上京しました。何を事業にする会社なのかを東京に来てから聞いたら、「まだ決めてない」と言ってましたね(笑)。

── それで就職先を決めたのもすごいですね。その後の社会人生活についても教えてください。

信岡 ベンチャー生活のはじめは営業をしていて、半年間くらいまったく成績が上がらなくて……。

「もうダメっす。ぼく……心が折れそうです」って先輩に泣きついたら、「じゃあウェブ制作やる?」と、1週間だけ好きに勉強していいとほっぽり出され、なんとか本を読んでHTMLについての概要をわかったところで、「じゃあこれ仕事ね!」とウェブ制作の案件が振られるようになりました(笑)。

── 実践で力を付けていくパターンですね。

信岡 そうですね。でも、その会社は利益がなかなか思うようにいかなくて悩んでいたところ、結果的に仲の良いベンチャー企業に吸収合併される形になり、ぼくはその会社に転籍しました。

それからはリクナビなどを見た後に企業側の自社サイトにつくられる採用専用のサイトというのがあって、そういう採用系のwebメディアを2年ほどつくっていましたね。ディレクターとしてある程度仕事ができるようになった時に、Webの仕事といっても手離れが悪くて、社内ではこのビジネスモデルでどうやって上場するかを話し合っていました。

その時に、利益だけを求めていると、これまで関係を築いてきたお客さんを大切にできないだろうと感じました。そしてこの先ずっと仕事を続けても、誰を、どう幸せにしているのかわからなくなってしまって。そのタイミングで身体を壊してしまい、いままでと同じ働き方ができなくなりました。2007年の6月くらいに、先のことは何も考えずにやめましたね。

週末だけよりも週5日間、持続可能な道を探りたい

株式会社巡の環のオフィス
株式会社巡の環のオフィス

── 海士町に行くきっかけを教えてください。

信岡 仕事をやめてから、よく話していた友達が株式会社巡の環(以下、巡の環)の創業メンバーの高野(高野清華さん)です。彼女は熊本から上京して、東京で色々な活動をしていました。結果的には「田舎で実践者として動きたい」と話していたんだけど、当時のぼくには彼女の感覚が全然わからなくて。

その時に彼女から「この本おもしろいから読んでみてよ」と勧められた本が、『離島発 生き残るための10の戦略』という海士町の町長が書いている本でした。ちょうど「持続可能性」というキーワードが世の中にでてきたタイミングだったんですね。田舎でというよりも持続可能性ということに最初は興味がありました。

それから1か月後くらいに、ある勉強会で聞いた「結局、週末だけ地球にいいことを勉強したり実践したりしても、平日は自分の能力と労力を使って大量生産しているんだよね」という言葉はとても記憶に残っています。要するに、週に5日間は大量生産に向かっていく渦がある。そして週末だけ地球にいいことをするぞ!という渦があります。これじゃあ、大量生産の渦に勝てねえぞ……みたいな(笑)。

島根県海士町

この渦を逆転させるには、これまでとは逆の週5日間、持続可能な方向に向かって本気で取り組んでいく人が増えていく必要がありますよね。そうすると田舎で働けるのが理想と思うんだけど、田舎には雇用がない。そこで、高野と一緒に地球の未来をつくるための学校を田舎でつくり、それを運用することで雇用をつくろうと思い立ったんですね。

── 代表の阿部裕志(あべ ひろし)さんはどのようなきっかけで会うことになったのですか。

信岡 阿部は、ぼくらが海士町に訪れる1年位前から何回か海士に通っていて、海士町に移住することを決めていました。2007年の9月に、ぼくと高野が海士町に訪れたタイミングで、「島前高校の魅力化プロジェクト」を手がけている悠(岩本悠)くんから、「信くんたちと同じようなことを考えている人が来るから、喋ってみたら?」って言われて。

その後、東京で2回と京都で1回会って、「一緒に海士町で活動していこう」という話をしました。そうして巡の環ができたんですね。

土の人と風の人が交わると、風土が生まれる

── 2008年に巡の環を設立してからはや7年。2014年にはふるさとづくり大賞を受賞されましたね。おめでとうございます。

信岡 ありがとうございます。ただ、評価されたのはぼくらではなくて、海士町という町が持っている力。つまり、町に若くて頑張っている人たちがいることだと思っています。町自体はそんなにメディアを気にしていないから、受賞を実感していないのが正直なところですね。

── これまでと変わらない、と。

信岡 ひとつの賞でなにかが劇的に変わるというのは、ちょっと虚業のような気がしますよね。ちゃんと「土」というか、ゼロイチの部分をコツコツ築いているから、時々そういうスポットが当たるという認識です。

── ……「土」。最近は地域の取材で「土の人」と「風の人」という言葉や、それらを示しているような表現をよく聞きます。

信岡 そうかもしれないですね。

── そもそも誰が仰った言葉なのでしょうか。

信岡 もともとは民俗学者の宮本常一さんかな? 『遠野物語』を書いた柳田国男が東北を中心とした東日本を研究しているのに対して、宮本常一さんはどちらかというと研究対象は西日本。全国津々浦々を渡り歩いて、その人たちが持っている伝承を記録している人というのがぼくの記憶です。

「土の人」はその土地(地域)に足を付けてずっと頑張っている人。「風の人」はよその土地からやってきて新しい知見を持ち込んでくれる人。「このふたつが交わって風土になる」と仰っていて。だからまあ、地元を土の人、Iターンを風の人と捉えることが最近多くて、この文脈が使われるんですね。

── なるほど。海士町では島民同士が交わり、既に各々がアクションを起こしていますね。以前編集部が取材で訪れた徳島県の神山町よりも、町として次のフェーズに進んでいる印象を受けました。

信岡 たぶん多くの地域が人をどうやって呼び込むかというチームのメンバー集めをしているフェーズがあって、海士はいま、集まってきた人と一緒に、どこまで本当にやれるんだろうということを考えていくフェーズにある感じです。

理由はふたつあると思います。ひとつ目は、一点突破型じゃないこと。産業だけではなくて、教育や福祉などを含めた町全体を形成するものに目が向いています。各領域で活動している人がバランスよく分散していますね。

ふたつ目は、官民一体になって動けていること。特産品の開発や住居の定住政策のような町を盛り上げていくために必要なことをしっかり行っています。島なので、暮らしも仕事も両方創らないといけない。そのハードルの高さがあるからうまれてきた出来事かもしれません。

── これまでの島暮らしを振り返って、いちばん心に残っている体験を教えてください。

信岡 みっちゃん(波多美智子さんというお母さん)の言葉が心に残っていますね。海士五感塾という巡の環が行う企業研修の料理の先生をお願いしていたんです。そのときに、お支払いしている謝礼よりも何倍ものおもてなしが出てきた。大丈夫かな?と思ってドキドキしていたんですけど、結局、「私はこの島の食材を使って、この島に来てくれた人をもてなすのが本当に好きで、島のことが本当に好きなのよ」とみっちゃんが言ってくれたんです。

その言葉の重みと、自分たちがいつも口にしている、「島が好き」の言葉の重みが全然違うなあと思って。心が伝わる度合いというか、島を思っている心の量が違うんですよ。だから、その言葉がいちばん地域の魅力を伝えられると思った。

ぼくらは地域の魅力を知らないのではなくて、そもそも島への愛情量が足りない。ここを出発点にしないかぎり、地域をより良くしたいという話は偽物になると思いました。2年目からのぼくの島暮らしの目標は、島を好きになることでしたね。

コミュニティの力とは、好きな自分へと変えていく推進力

── 信岡さんが考える「コミュニティが持つ力」について教えてください。

信岡 ぼくの生い立ちの話になるんだけど、小学校の頃の話です。当時はよく学級崩壊していました。ぼくはどちらかというと、いじめられる側の人間。まあマシなほうだったんですけどね。だけども友人関係の中でまともに安心していられる世界はなかなかなくて、どんどん鬱屈していくんですよ。自分がいちばん喋りたい事を喋っても、友達はなかなかできない。

大学の3,4年になってはじめて、本当に居心地のいいコミュニティに出会いました。友達がつくっているコミュニティスペースです。いまでもそのコミュニティの人たちと仕事をしているし、なんかね、あそこがいちばん最初のぼくにとってのホームなんですよ。

── 何が信岡さんにとって、ホームと感じさせたのでしょうか。

信岡 そこで、はじめて自分が話したいことを話していい人と時間に出会って、自分のことがやっと好きになれたんです。今まで自分の好きなことを話すと、周りの友人には合わないから、自分を違う形に見せないといけなかった。でも、そのコミュニティでは素の自分を受け入れてもらえました。さらにぼくは海士町を訪れてから、素敵なことをしている人たちと日々一緒にいられます。

信岡良亮さん

信岡 そういうコミュニティにいると、いちばん大事にしたい自分でいられて、絶え間なく良くなっていくんですよね。素を認めてくれる人からのアドバイスは、心から素直に受け入れられる。自分が好きな方向に向かって変わっていく力を感じています。すると、生きていくのが楽になっていきます。つまりコミュニティが本当にいい機能をしていると、自己肯定感が上昇していき、人は好きな自分に変わっていきやすいと思います。なんかぼくは、コミュニティの力に救われているところが多いんですよね。そうでないコミュニティも多々あるので、すべてのコミュニティがそういう力を持っていけるともっと人の居場所って増えていくと思います。

── これまで海士町で取材させていただいた方々も、まさに自己肯定感が高い人だと思いました。

信岡 コミュニティとつながっている感情を持っている人は、自然とコミュニティの力を感じると思う。そのチームとだからできることがいっぱいあるから。例えば巡の環というところも、ただのIターン3人で創業した会社だとしたら、実力はたいしたことないですよ、本当に。

でも海士町というコミュニティで、町のみんなと一緒に動けているから、おかげでぼくたちは、本来の実力以上の仕事ができます。こうして取材もしてもらえる。これは海士町というコミュニティが持っている力だと思います。

次回、【島根県海士町】ヒトが絶滅危惧種?日本を変えないと海士町は変わらない:第2回は4月30日(木)更新予定

海士町信岡さん

お話をうかがった人

信岡 良亮(のぶおか りょうすけ)
取締役/メディア事業プロデューサー。株式会社巡の環の取締役。関西で生まれ育ち同志社大学卒業後、東京でITベンチャー企業に就職。Webのディレクターとして働きながら大きすぎる経済の成長の先に幸せな未来があるイメージが湧かなくなり、2007年6月に退社。小さな経済でこそ持続可能な未来が見えるのではないかと、島根県隠岐諸島の中ノ島・海士町という人口2400人弱の島に移住し、2008年に株式会社巡の環を仲間と共に起業。6年半の島生活を経て、地域活性というワードではなく、過疎を地方側だけの問題ではなく全ての繋がりの関係性を良くしていくという次のステップに進むため、2014年5月より東京に活動拠点を移し、都市と農村の新しい関係を模索中。【募集中】海士町でじっくり考える「これからの日本、都市と農村、自分、自分たちの仕事」

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小松﨑拓郎

ドイツ・ベルリン在住の編集者。茨城県龍ケ崎市出身、→ さらに詳しく見る

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