編集部自身のこれからの暮らしを考える企画【ぼくらの学び】。僕は幼い頃に、地元にあるお城のお堀で河童(かっぱ)を見た記憶があります。あれは本当に河童だったのか、それとも他の何かなのか、今でも会うことができるのか……。
民俗学者の柳田國男が書いた『遠野物語』を読むと、妖怪は日本の暮らしに古くから根付いている存在ではないかと感じられます。実際に遠野では、多くのひとが妖怪の存在を受け入れ、目には見えないけれど存在するであろう何かを大切に扱っています。
また別の地域へ取材に言っても同じようなお話を聞く機会があるかもしれません。これからの暮らしを考える上で、妖怪のような目に見えない不確かな存在について学ぶことは、必要なことに思えたのです。
妖怪はいるのか? 妖怪とは何か?
これまで上記の疑問を基にいくつかの取材を行ってきた中で、新たな疑問が湧いてきました。「なぜ日本のひとはここまで、妖怪や、物の怪といった異形のものへ高い興味関心を示すのか?」というものです。
そう思ったのは、2016年の夏に日本で流行した庵野秀明監督による映画『シン・ゴジラ』と、Nianticによるスマートフォンアプリ「Pokémon GO」(以下、ポケモンGO)の影響があります。
また、青幻舎より刊行されたフランス人カメラマンのシャルル・フレジェによる写真集『YOKAI NO SHIMA 日本の祝祭 ― 万物に宿る神々の仮装』(以下、『YOKAI NO SHIMA』)に登場する、日本の祭りにおける妖怪や物の怪の存在と、『シン・ゴジラ』やポケモンGOが流行することは、何かしらのつながりがあるように感じられました。
ゴジラやポケモンは、妖怪とは呼ばれないものの、人間でも動物でもない“何か”です。『YOKAI NO SHIMA』で取り上げられるのは、「妖怪(YOKAI)」と呼ばれる、日本のお祭りに登場する異形のものです。
今回は『YOKAI NO SHIMA』に寄稿されている民俗学者の畑中章宏さんにお話をうかがいました。そこで語られたのは「妖怪は祖霊でもあり、人々は、ゴジラにも同じことを感じているのかもしれない」というお話です。
(以下、畑中章宏)
妖怪をファッションポートレートして切り取った『YOKAI NO SHIMA』
今日はポケモンGOや映画『シン・ゴジラ』が流行ることと、妖怪との関連について聞きたいって話ですよね。じつは、ポケモンGOについてはWIREDの連載「21世紀の民俗学」にも似たことを書くんですよ。フィールドトリップの話。
(※取材直後の2016年9月11日にWIREDにて以下の記事が公開された)
いただいた質問に「なぜ日本人は妖怪を身近な存在に感じるのか」とあったんだけど、『YOKAI NO SHIMA』に関して言えば、読者は身近な存在とは見ていないんじゃないかなと、僕は思います。まず、読者にとっては「こんな祭りが日本にはあったのか」という驚き、仮装に対する発見の驚きが大きいと思う。
妖怪や物の怪が、いかにもお神楽とかお囃子が鳴っている演目の中に登場するシーンはイメージしやすいですよね。でも、フレジェの写真はそれらを排除していて、お祭りの櫓(やぐら)の周りや町の中ではあえて撮影せず、装いとはあまり関係がない、海岸や田んぼの中で撮影している。そこが優れている点です。フレジェはお祭りや信仰をこの本で扱っているけど、お祭りではなくて、あくまで衣装に焦点を絞っているんですね。服をまとい、お面を被ることによって、あるひとが変身することや属性が変わることが表現の中心なんです。
ヨーロッパの場合はキリスト教が、ある時代以降、主な宗教になっているんだけども、フレジェ自身はフランスの農家のひとだから、キリスト教以前からある精霊信仰を持っていると思う。農家にとっては、キリスト教の一神教よりも季節ごとに現れる自然の化身が重要じゃないか、と考えたことが今回の取り組みのきっかけなんでしょう。
フレジェは、そういった文脈を一旦横に置いて、ファッションポートレートとして妖怪たちを撮ることによって、仮面や衣装がより鮮明に際立って、万人に受ける普遍性を獲得している。この本は一点ごとの写真を見ただけでも楽しめますよね。
東日本大震災から5年半経った現在の、人々の気持ち
ポケモンやゴジラが流行る気分はどういうものかという話に戻ると――『シン・ゴジラ』を観たひとが一番反応するのって「自分の勤めてるビルがゴジラに襲われた」みたいな話じゃないですか? あるいはポケモンGOにしても、現実にはいないものが近くに潜んでいるんじゃないか、ある日突然現れるんじゃないかという、願望に近い、期待と恐れが入り混じった気持ちがあるのかもしれません。
東日本大震災後、福島の問題もある中で5年以上の時間が経って、一見何事もなかったように生きているけど、また近い将来何かが起こるかもしれない。そういった漠然とした恐怖心が、人々の深層心理に植え付けられた状態が今、なんです。
僕は2011年の6月頃に津波被災地を視察しましたが、『シン・ゴジラ』の映像は恐ろしすぎました。すごく生々しかった。それでもなぜ『シン・ゴジラ』やポケモンGoが流行るのかというと、いつか現実に不意に何かが起こるのではないかという世の中の人々の恐怖心や不安感を、映画として、ゲームとして、体現しているからと言えます。死や霊的なものが、震災直後のときはたくさん語られたんです。そういうものを改めて考えざるを得なかった時期を経て、今はみんな平穏を取り戻した気になっているけど、じつは目を塞いでいるだけで、心の中にはわだかまりが溜まっていった。
そのわだかまりが、妖怪や、ゴジラやポケモンによって、表出しているとは考えられますよね。また何かが起きて大変な状況になるんじゃないかと潜在的に思っている恐怖や不安が、ポケモンとかゴジラによって紛らわされている。
祖霊としての妖怪、物の怪
じゃあ妖怪も、そういう不安や恐怖を形にしたものかというと、まるっきりそうだというわけではない。たとえば……この写真、見てください。
これ、九州の河童である「ガラッパ」なんだけど、これを見て「あ、これは河童だ」ってなりますか? ならないですよね。僕の仮説では、こういった物の怪は先祖の霊、祖霊なのではないか、と思っています。
中には人生をまっとうした霊もいれば、災害で死んで怨霊化する霊もいる。霊はある程度の時期を過ぎれば、祖霊という形で、怨霊的なものであっても自分たちを見守ってくれる存在だと考えることが、日本の民俗学、日本の霊魂観にはあるんですね。柳田國男の霊魂観にはそういう祖霊観があって、彼も先祖の話を繰り返し書いています。
これも僕自身の仮説なんだけど、おそらく河童というのは、かつてあった水害、河川の氾濫によって、多くのひとが亡くなった記憶が表現されたものなんじゃないか、と。一般的にイメージされる河童よりもこのガラッパのほうが、水害で亡くなった人の霊という意味では、僕にとってはすごくイメージに近いですよ。
顔を隠しているし、いかにも昔の一般の人の装束、服装をしている。現実感と生々しさがありますよね。本来の河童は、自分たちの住んでいる共同体で過去に亡くなった人々の集合霊なんじゃないかなというのが僕の仮説です。
津波災害と『シン・ゴジラ』
『シン・ゴジラ』は監督の庵野秀明さんが、1954年に公開された初代の映画『ゴジラ』を踏まえてつくっているわけですよね。1954年、昭和29年は、太平洋戦争の終結からまだ9年しか経っていない。そんな時期の映画で、空襲のあとに傷ついた人々が搬送されていくのを模したシーンがたくさん出てくるのが『ゴジラ』なんです。
映画の直近に起きた、第五福竜丸事件がゴジラのモチーフになっている、というのはよく言われる話なのですが、僕はゴジラは、東京大空襲で亡くなった人の集合霊ではないかと感じています。それはつまり、『YOKAI NO SHIMA』に出てくる物の怪と同じ、祖霊とも言えますね。
どうしてそう思うのかというと、初代ゴジラもそうだし、今回のゴジラもそうだけども、見たひとの「かわいそう」という感想がすごく多いんです。単なる破壊的な怪獣ではなくて、異形のものではあるけど生み出された背景を踏まえて、自分たちとまったく無縁ではないと感じる、またはそこに身近さがあるのでしょう。『シン・ゴジラ』だったら、東日本大震災の津波災害の死者の集合霊というふうに見ることもできて、鎮魂という要素も含まれるかもしれません。
もしかしたら人々は、どこかでゴジラやポケモンに「祖霊」に近い思いを感じているのでしょう。妖怪はかわいいとかおもしろいと言ってウケているんだけれど、それは、潜在的には柳田國男が解釈したような祖霊的な存在として、楽しんでいるのかもしれないですね。
神々と妖怪はグラデーションの中で混在している
柳田國男の『妖怪談義』という本の序文に「妖怪は零落(れいらく)した神々である」という言葉があって。それは非常に便利な言葉で、標語みたいにして使われています。神々は、神として畏怖、恐れも含めて崇拝され、神社に祭神として祀られる。妖怪はそこまでの条件に満たなくて、神社や小さな祠にすら祀られることなく、人間を驚かせたりギョッとさせたりするもの、あるいは滑稽なものとして考えられてきた。
でも、僕はあまりそういうふうには見ていません。ある意味では妖怪も、八百万の神のひとつという解釈。神社の祭神は、古事記とか日本書紀に登場する神様が祀られるケースが、非常に多いです。ただ、いろんな各地の小さな神社に行くと、古事記や日本書紀に登場しない、単なる水神とか龍神、雷神という、神話の神じゃない自然神だって日本中にいっぱいいる。精霊的な、名前のない神々も実際にたくさんいる。僕はそういうものを含めて八百万の神だと思っています。
フレジェがこの本に登場する物の怪を「妖怪(YOKAI)」と呼んで「これらって妖怪なの?」と物議を醸したようですが、神様と妖怪は、じつはグラデーションとして混在していて、明確に線を引けるものではないというのが僕の考え方なんですね。モヤッとしているんですよ。
妖怪は神社が建てられて祀られることはないけれども、お祭りという形で奉られることもある。フレジェが本に登場する物の怪を「妖怪」と呼んだのはおもしろいし、的を射ているなと僕は思っています。
モヤッとすることと民俗学の本質
そもそも妖怪の話もそうだけど、民俗学って曖昧なんです。僕の話に、いちゃもんをつけてくるひとって(笑)だいたい「結局、結論ねえじゃん」とか「何が言いたいんだよ」とか言うんですが、それが民俗学の本質。民族の儀礼や歴史を遡って、「今あるこういう習慣はもともとこういうものですよ」「古いものがよいんですよ」と言い切ってしまったら、おもしろくない。
柳田國男もそうです。「この出来事はこういうことですよ」って解決するのは、社会学や解釈学、分析学になってしまう。柳田自身、「今日も結論が出なかった」っていつも書いています。いろんな本の文末に「みなさん一緒に考えてくださいね」みたいなことが書いてあって、なんだよこれ投げっぱなしかよって思うんだけど(笑)。
僕もそれは踏襲していて、結論を出すんじゃなくてモヤッとしていていい。読者に、モヤッとしたものを抱えてもらって、また日常に戻っていって欲しいんです。
お話をうかがったひと
畑中 章宏(はたなか あきひろ)
作家、編集者、民俗学者。平凡社で編集者としてのキャリアをスタート。雑誌『月刊太陽』や『荒木経惟写真全集』などの編集にたずさわり、その後フリーランスとなる。代表作に『柳田国男と今和次郎』(平凡社)、『災害と妖怪――柳田国男と歩く日本の天変地異』(亜紀書房)、『ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか――新美南吉の小さな世界』(晶文社)、『先祖と日本人』(日本評論社)がある。2015年12月11日に『蚕──絹糸を吐く虫と日本人』が晶文社から発売。『WIRED.jp』にて「21世紀の民俗学」を連載中。Twitter:@akirevolution